e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-1913- 天邪鬼:その9
(どこまでが天邪鬼の話か不明瞭になりつつあるが、成り行き上続いてしまう。)
一方自社の商品化戦略が見事的中し、追いかける他社を尻目にそれからも 3号機 4号機と商品化されるデジタルカメラは軒並みトップシェアを獲得し、順調に売上が伸びて事業部は拡大の一途を辿り、ついには古巣のフィルムカメラ事業部の売上をも超えてその古巣の事業部と情報機器事業部の一部を統合して新しく映像事業部が発足した。私が古巣を飛び出す時の挨拶、大志だけで何の根拠もなく大言壮語した「皆が乗り移れる大きな船」は図らずも実現してしまった。
時をほぼ同じくして私に「一年でデジタルカメラを商品化しろ。」と指示したKs社長は会長に退き、それまでデジタルカメラを担当してきた役員の Kk常務が社長に就任した。しかしその流れからも、そして新規事業を短期に既存事業部並みの事業に育て上げた実績からも当然 K部長が映像事業部トップになると誰からも思われていたが、何故か事業部長には直前にフィルムカメラ事業部のトップに就任した Km事業部長が横滑りし、K部長は副事業部長としてデジタルカメラ事業を統括するという、どう見ても上手くは行きそうにない 2枚看板体制になった。新しい Km事業部長は元自動車用タイヤメーカーのアメリカ法人で辣腕のリストラを遂行したと言う人で、リストラを完遂した後フィルムカメラ事業の不振時に営業部長として当時の Sm会長が社外から迎え入れ、その後東南アジアのカメラ製造工場を立て直したりした人物だった。しかしそれは私がフィルムカメラ事業部の開発から飛び出した後の話で、私とは全く接点がなく人となりなどは直接にはあまり知らない人だった。だが人づてに聞く話からは、営業や製造という成績の数値化しやすい現場をスローガンを掲げて意識改革していくようなことは得意そうだが、民生品の企画・開発とかマーケティングのような技術や市場の動向分析や先読みということが重要な分野に関しては否定的な感触だった。当時の私の見立てでは「車が1台売れれば自動的に4つ売れるタイヤ商売しか分からない」人だった。タイヤ商売とは、極端な話が仮に革命的なタイヤを開発しても車が売れない限りタイヤだけで全体市場を倍には広げられないから、事業拡大の成長戦略はシェアを上げるか原価を下げるかだけしかない商売だ。それに対して民生品の中でも企画・開発先行の傾向が強いカメラビジネスと言うのは、自動露出やオートフォーカス機能と言った先進的な技術が開発される度に、あるいは一眼レフブームと言ったユーザー嗜好を焚き付ける度に市場規模を何倍にも拡大してきた市場で、成熟市場の製造や営業分野で実績を上げたからと言ってまさに創成期のデジタルカメラの旗振りに適しているとは思えなかった。・・・というのは若干後付気味の理由で、根本は<「スローガン」で十把一絡げに操られるのが根っから嫌い>と言う私の中の天邪鬼の問題と、加えてその Km事業部長を社外から引っ張ってきたと言う Sm会長(その時は顧問)に対しても、私はある事件をきっかけに人間性を疑うようになったので、坊主憎けりゃ・・・的な短絡評価かも知れないが。そしてこの Km事業部長誕生は実は Kk社長や Ks会長の意向ではなく、もうとうに引退したと思われていた 件の Sm会長、当時の Sm顧問の横槍だったことを私は退社直前に知ったんだが、この Sm顧問の別の負の遺産はその後会社全体の存亡の危機を招くことになる。(このあたりに関しては更に横道に逸れるので別の機会に書こうと思う。)
そんな組織の変化もあって私は仕事にそれまでのようには熱意が湧かず、その流れから自分はどこまでも大勢に流されることが嫌いな天邪鬼なんだという自己発見をしたこともあって、高画素化一辺倒に流れるデジタルカメラ市場のカメラの企画にも次第に興味が湧かなくなっていった。
それでも上辺の仕事はしなければならず、デジタルカメラの世界を広げると言う観点から、仕事はカメラメーカーならではの画像専用プリンタの開発などにシフトさせていったが、その頃は既に家庭用プリンタの世界はインクジェットの強豪が市場を分け合っており、もはや画像専用プリンタの入り込む隙間はなかった。
間もなくして、それまでデジタルカメラの記録用に使用していたメモリカードのスマートメディアと言う規格が古くなり、より小型化した新しいメモリカード規格を考えるか既存の SDカードに乗り換えるかと言う問題が顕在化してきた。
フィルムカメラの時代、カメラメーカーはカメラというハードを利益スレスレで販売し、一方フィルムメーカーはしっかりフィルムやプリントビジネスで利益を得るという市場構造だった。それを一番苦々しく思っていたのがカメラの販売の最前線で長いこと苦労してきた K部長で、デジタルカメラ事業を興したらメモリカードビジネスも手中に収めたいと言うのが悲願だった。それが実際には、フィルムがメモリカードに変わったもののメモリカードは半導体メーカーが製造して供給するので市場参入が容易で、パソコンの周辺機器ブランドが一斉に参入して時には売上高確保のために利益度外視で在庫を処分するブランドが多発し市場価格が急激に値崩れしやすく、全国の中小カメラ店まで卸さないとならないカメラメーカーは在庫量も多く値崩れで損害を被るため自社ブランドのカードは利益には繋がらず売りづらい状況が生じていた。
そこで、副事業部長に就任した K部長と私は新しいメモリカード規格を作ってメモリカードのビジネスを再構築することを考え始めた。丁度同じスマートメディアを採用したデジタルカメラを製造していた F社の担当者とはメモリカードの規格会議で顔見知りだった私は、フラッシュメモリの製造元の T社を巻き込んで 3社でスマートメディアの後継となる新しいメモリカードの規格化の検討を開始した。そこでの課題は電気的な仕様の検討よりも如何にしてメモリカードの販売をデジタルカメラメーカーが主導できるかということだった。懸念されるのは独禁法との兼ね合いで、そのため社内の法務部門の担当者にも参加してもらい独禁法の専門の弁護士の事務所に何度も通い、「デジタルカメラ専用メモリカードをデジタルカメラメーカーだけが独占販売する」ことの可能性を検討した。
しかしこうした動きは再び社内の猛反発を招いた。先行するメモリカード規格に対して、カメラメーカー2社だけが提唱するメモリカードなどを採用したらデジタルカメラ自体が市場で戦えないと言う主張がその中心だったが、開発でそれを主張している人間は「とにかく先行する SDカードを使いたい。SDカードの無線通信などの拡張機能の技術を取得したい。」と言う動機が明らかで、カメラビジネス全体でどう利益を確保するのか、と言う観点が欠如しているのは明白だった。私の考えでは、パソコンユーザーはメモリカードを各種の周辺機器間で使い回すので、どんなメモリカードが使われているのか?と言う仕様には敏感で、マイナーなメモリカードを採用した機器を敬遠することは分かっているが、デジタルカメラユーザーはそうした事よりもカメラ本来の機能・性能の方に関心が高く、パソコンで読み込むためのカードリーダーさえ入手できれば大きな問題ではないと考えた。しかし、今回もそういった説明は自社の開発部隊には聞き入れられなかった。しかし次期メモリカードを選択するための数回の社内会議を経て、K副事業部長の強力なプッシュもあってデジタルカメラビジネスをトータルで考えた場合、独自メモリカードのほうが利益が大きいという結論を導いて、開発は不承不承ながら独自メモリカードでのデジタルカメラ開発を承諾した。
この社内決定を経て、私はもう一人の技術担当者と一緒に F社、T社との共同開発に本格的に取り掛かった。しかしそれから数ヶ月後、カードやコネクタなどの詳細な設計が終わる頃、社内でクーデターのような思わぬ事態が起きた。
当時の私はこの仕事のために T社に置かれた事務局にほぼ毎日出向く生活で自社に戻ることは少なかった。しかし K副事業部長が米国出張中のある金曜日の午後、久しぶりに会社に戻って自分の机に向かっていると同僚の Y氏が話すのを躊躇いながらも「実は明日、開発トップが開発中のカメラの件で事業部長に直談判に来ます。私も同席するように言われています。」と教えてくれた。当時開発部隊のいる事業場にはほとんど顔を出したことがなかったが、新しいデジタルカメラの設計が新しいメモリカード対応をしていないことは薄々知っており、しかもその週は K副事業部長が海外出張していたので、私は直感で新しいデジタルカメラの設計を新しいメモリカード対応から SDカード対応に切り替える話だ、と察した。そこで翌土曜日、特に用事があったわけではないが職場に出社して待っていると開発トップ2人が現れた。土曜日でいないと思った私がいることに一瞬びっくりした様子だったが、何食わぬ顔で Y氏に声をかけて共に事業部長室に入っていった。そこで私も呼ばれもしないのに Y氏の後に続いて入っていった。おそらく2人は困っただろうけれど、話がメモリカードの件なら担当の私を追い出すわけにもいかないだろう、違うと言われれば出ていけばいいだけだと読んでいた。しかしその時、恐らく Km事業部長は 私も 2人に呼ばれて出席したのだと思ったに違いない。
果たせるかな、話はやはり カメラ開発ではメモリカードを既存のメジャーな SDカードに変更したいという提案で、それまでに彼らが何度も繰り返した<至極もっともな理由>をもう一度並べて「今から」カメラの設計は SDカード対応に変更させて欲しいという直訴をした。彼らが一通り話し終わるまでじっと我慢して、私は最後に一言だけ発言させてもらった。「この新しいメモリカードの話は、デジカメメーカー 2社が合意できたからスタート出来た話です。もし当社がこの枠組を外れたら、F社1社だけでは成り立たないので、アチラも全てのデジカメ商品の開発が頓挫します。会社同士の合意を基に進めている話を今から覆すことの意味をよく考えて判断下さい。ここでリセットすれば当社は以降 この業界では全く相手にされなくなりますから、覆す判断はその覚悟を持って行なって下さい。」とだけ言った。
私が闖入しなくとも Km事業部長は彼らの判断に同意したかどうかは分からないが、少なくとも 新しい事業部長をあまり快く思えない私よりもこの時の開発トップ2人は何かにつけ Km事業部長にミエミエに取り入っていた。だから私は彼らの主張に逐一の反論をすることは控えて、もし元々の提唱者の Kさんの留守に、自分で覆すような判断するなら会社の看板という覚悟を持ってほしい。と出過ぎた事を言ったのかも知れない。
しかし Km事業部長の判断は私の狙い通り「とりあえず、今までのまま進めて下さい。もしそれで決定的な不都合があればその時にもう一度話をしましょう。」というものだった。恐らく、開発の2人にしてみれば K副事業部長がいないはずの隙を狙った土曜日にいるとは思わなかった私に闖入されて導きたかった結論が出せずに、しかも密かに SDカード対応で先回りしたと思っていた彼らの担当の開発製品の方向転換を何ヶ月か遅れで余儀なくされて随分慌てたに違いない。
このことがあったその夜、一晩かけて悩みながら文面を作り、明け方に私は事業部長と副事業部長の2人に宛てて苦言のメールを発信した。一旦決めた話を、しかも会社間を跨いで進行させている話をこうしてイレギュラーな形でひっくり返そうとするのは、しかも新規メモリカードを推進している副事業部長の留守を狙って話が起きるのは事業部長と副事業部長の間の隙が見越されてそこを狙われているからで、当時 Km事業部長が口癖のように言っていた、理解とか融和と言うような(正確な用語は忘れたが)スローガンはまず自ら実践をして欲しいと。
その時、Km事業部長からのリアクションは・・・・何も無かった。少なくとも私には何も。まぁ期待もしていなかったが、もしあればあったで続けていくつかの苦言や提言を進言するキッカケにするつもりはあった。不思議なもので、弦の共鳴のように一部にほんの僅かの振動を加えるだけで大きな共振が起きるような人間関係もあるのに、思い切って大きな外乱を加えたにもかかわらず何も共振が起きないような関係もあるもんだ、とこの時思った記憶がある。
まぁ、そんな社内のドタバタを他所に F社、T社それに専用コネクタを開発するため Y社を加えて4社での度重なる規格の概要や市場戦略などの会議を経て新メモリカード開発の基本合意に至った。SDカードなど先行するカードは普及のために門戸を広げる戦略を取っていたため、メモリカードも周辺機器メーカーなどの OEM販売が乱立し過当な価格競争が起きたという分析を元に、弁護士のアドバイスを元に考えたのは新しいカードはデジタルカメラ以外での普及は捨てて、その代わりデジタルカメラメーカーが普及させ、市場での品質保証もデジタルカメラメーカーが機器からカードまでトータルで保証することにして、そのためにデジタルカメラメーカー以外のブランドでの販売は認めないというのがその基本的な枠組みだった。
しかしグループ内でこの枠組を決めるのも簡単ではなかった。フラッシュメモリチップからメモリカードまで製造する T社は、当然自社のブランドのメモリカードビジネスを広く展開しており、自社がコアメンバーとして進める新しいカード規格のカードを自社ブランドでは販売できないと言うジレンマに陥り、何とか T社ブランドだけは認めてほしいと主張した。しかし T社のブランドを認めてしまうと「デジタルカメラブランドのカードだけを販売する。」と言う枠組みに齟齬が生じて後々他社の参入を認めざるを得なくなると言う懸念があり、私は断固拒否した。
やがてこの枠組が公表されると、とりわけ SD社や Lx社など参入を拒否された海外の有力カード専業メーカーから厳しいクレームが付き始めた。各会社からは何度も米国本社のトップが来日して特許や独禁法などを持ち出してカード販売に参入させるようにとの強引な申し入れが行われた。独禁法に関しては既に弁護士と相談済みで、特許に対してはフラッシュメモリを製造する T社の凄腕の渉外部長 K氏が「大丈夫。彼らが実際に動ける訳がありません。万が一の時は全て対応します。」と言うので全面的に信頼して、独占販売を強く主張した K副事業部長が「PCペリフェラルで広まった他のカードとは違いこのカード市場はデジタルカメラが作る市場だから対応カメラを販売しない会社には扱わせない。」と臆することなく正面から参入拒否を伝えた。結局は脅しにも屈せずメモリカード専業メーカーのカード販売は実現しなかったが、おそらく相手は日米半導体交渉のようにアメリカ人が特許権などをちらつかせて英語でまくし立てたら日本人は皆縮み上がって譲歩するだろうと期待していたに違いない。前出の T社ブランドの販売を認めていたらここでの主張にスキが生じただけに、4社間での軋みを覚悟して T社ブランドのカードを認めなかったことの正しさが証明された形となり、この出来事で T社の凄腕渉外部長 K氏からも一目置かれるようになった。
そして、いよいよ新しい規格のメモリカードも対応のデジタルカメラも生産の日程が近づく頃になって、忘れもしない一層大変な事態が勃発した。
実は、K副事業部長は韓国のフラッシュメモリーメーカー Sm社のトップと懇意で、この枠組に Sm社も参加させるように交渉しろと言い出した。理由は至極もっともで「1社供給では製造ラインに何かあったら困るし、価格も高止まりする。」と言うことに加えて、当時は もう一社の F社の事業部トップはその昔、T社に在籍していた関係上 F社と T社はかなり緊密な関係で、若干距離を置く我が社とはビジネス上 正三角形よりもかなり歪な三角形の様相だった。K副事業部長の狙いはそこに Sm社という楔を打ち込んで揺さぶりたいと言う思惑があった。しかし、 T社にとって見れば「自社が発明したフラッシュメモリを半導体摩擦などで渋々許諾したにも関わらず、その後牙城を脅かすまでに成長した Sm社を新しいカード製造にまで参入させるなんて以ての外」と言うもので、私の提案は言うまでもなく箸にも棒にも掛からない状態だった。しかし、K副事業部長は一旦言い出したことは引っ込めることは絶対にしない。主張が通らなければ SDカードに戻す、と言い張った。 T社では通常の交渉は例の凄腕渉外部長 K氏が対応していたが、この件は事業部としての判断が必要ということで当時の M事業部長、後の社長が出席していた。対して私はかなり格下とは思ったが、 K副事業部長の指示もあって渋々何度か気の重い交渉に単身出向いた。しかし当然相手は譲るはずもなく、いよいよ日程が迫り最後の判断を数日後に T社から回答しに来てくれるという最後の会議の日、珍しく M事業部長が私の帰りがけに会議室を出てエレベーターまで見送りに出てくれた。私は「チャンスだ! 今しかない!」と思って、「K副事業部長は言い出したら絶対に聞きません。御社が譲歩してくれないとこの件は本当にリセットすると思います。」と伝えた。ここまで大変な交渉を進めてきて、あと一歩という所まで来たのに、相手からの弾ではなく身内からの弾で実を結ばないのか!と思ったら気持ちは最悪で、外部業務者用通行証までもらった T社に来るのもこれが最後になるかも知れないと思ったら、多分これ以上無いくらい暗い顔をしていたと思う。
そして、数日後 T社トップが我社に回答を持ってくると言う日の朝、その前の夜に「主張を絶対に曲げない Kさんと一緒の仕事をするとなった時に、もしかしたら?と思った辞表を出すのはもう今しかない」と腹を決めて書いた辞表を懐に忍ばせて、出社するなり K副事業部長の部屋に出向いた。「今日、T社が最終回答を持ってきますが、私も全力を尽くしたつもりですが、それでももし『ノー』だったらどうします?」と聞いた。K副事業部長からは予想通り事も無げに「当然ご破算にするだけだ。」と言う答えが返ってきた。やはり、と思いつつ「では、これを読んでおいて下さい」と用意した辞表を机の上においてそのまま部屋を出た。その直後、血相を変えた K副事業部長が部屋を飛び出してきて「なんだこれは!」と叫んだが、時間的に中身をよく読んだとは思えなかったし「そこに書いた通りです。よく読んでいただければわかると思います」とだけ答えて自分の席に帰った。
そして、いよいよ T社の来社で私は気まずい雰囲気で応接室に並んだが、それを察したかのようにすぐ T社の M事業部長が切り出した。「御社の意向は十分にわかりました。当社としては 半年のプライオリティーで Sm社に仕様書を提示することを承諾します。」と思いもしなかった回答くれた。私が思わず ホッ とするのと同時に、K副事業部長が「いや~ぁ、Mさん、助かった。御社がノーと言ったら私はこの男をクビにしなきゃならなかった。私がご破算にすると言ったら彼が辞表を叩きつけて来たんでねぇ。」と笑いながら私を指さした。T社の回答もさることながら、まさかここで辞表のことを暴露されるとは思いもしなかったので私も二度ビックリしたが、相手の M事業部長や K渉外部長始め当社の周りの人間はその話にもっとビックリしたらしい。とりわけ内心「ノー」と言う答えを期待して出席していたであろう件の開発トップの H氏のビックリした顔は忘れられない。
後々、T社の K渉外部長や F社の交渉担当者から一緒に飲む度に「いや~ぁ、私はこの仕事に首をかけるつもりはなかったけど、Yさんはクビをかけてたんだ。」と何度も冷やかされた。しかしこのことがあってから私の共同開発に対する立ち位置が認められたのか、三社の関係は正三角形に近くなり以降の交渉はトントン拍子に進み、私が提案した独占のスキームや新しいカードのネーミングもすんなり受け入れられた。それから約半年後、無事新カードと対応カメラが2社から発売されたが、私達の狙い通りカードの不用意な価格変動は最小に留まり、カードビジネスは順調にスタートした。
後に(私が退社してからだが)風の噂に、その事業はカメラメーカー2社にとってほとんど何も開発行為を必要としないのに年間数百億単位の売上高とその何割もの純利益を上げていると聞いた。私ともう一人の技術者の 2人だけで交渉し、1年ほどをかけただけの仕事だったが、一時期デジタルカメラ本体の赤字の穴を埋め事業全体の利益の大半を稼ぎ出したようだ。しかし真っ向からツブしにかかった開発トップがリーダーを務め何十人と言うエンジニアが関わった製品の穴を埋めているであろう図式は社外から見ていても胸がすくものだった。

今日の写真は娘の家の後ろの田植え後の田んぼに放し飼いにされたカモの番が日光浴に出てきていた。
性格・能力(デジカメ開発)・考え方・文化論
2017/06/06