e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-1912- 天邪鬼:その8
昨日まで書いた1号機の開発・発売は、会社として長年の懸案であった新規事業創生としてデジタルカメラ事業を立ち上げるために、社長が風雲児の K部長に託した「会社としてのデジタルカメラ事業に対するプレゼンスを示せ。そのためには他社に先を越されることなくトップで本格的なデジタルカメラの商品化を実現してアッピールしなければならないが、それには1年での商品化が必須だ。」と言うターゲットが基本にあった。しかしそれに対してそれまでデジタルカメラを研究してきた研究部隊は、本格的なデジタルカメラの開発にはどうしても2年以上かかると言って応じなかった。そこでまず私と T氏が新事業推進部に人事異動して社外も含めて1年で商品化するためのシナリオづくりをすることになって、結果S社という有力な共同開発先を見つけて共同開発することになった。しかしそれにも関わらず、研究部隊のリーダーはあくまで出来るはずはないと言い張り協力を拒んだ。話し合いでは埒が明かないと判断した K部長は、「社長方針」を錦の御旗にして結局2つあった研究部隊の片方のそれまで業務用カメラを担当していた部隊のリーダーと部長を外し、私と T氏が移動して傀儡として研究部隊をコントロールすることでS社と1号機の共同開発を行う組織改編を断行した。
そして途中数々の横槍や反抗、「ありがたい」指摘などが山ほどあったものの、結果は社長から私が移動初日の挨拶で指示された日から1年半、S社と共同開発をスタートさせてからキッチリ1年で発売に漕ぎ着け、付け焼き刃の自前パワーポイントでの新製品発表会を経て、メディアや市場は私達の期待以上で K部長の読み通りの反応を示していった。一方社内はと言うと、それまで計画スタートから10年近く経っても売上高50億円前後で推移する新事業がある中、組織のスタートから1年足らずなのに突然1号機だけで100億円近い売上を上げた事業が出現し新事業推進部に注目が集まり、さすがに上層部のあからさまな反対は納まったものの今度は既存事業部間で人事的な駆け引きの対象にされ始めた。
そして2号機。
事業シナリオ作りから1年でまず私達が1号機の発売に漕ぎ着けて時間稼ぎをしている間、残されたもう一方の元研究部隊は本格的な自社オリジナルのデジタルカメラの開発を推進していた。我々が1号機の開発をスタートさせる前から、より本格的なデジタルカメラをターゲットにキーパーツである CCDは理想的な画質を実現するためにプログレッシブ方式原色フィルターの CCD( 画素数 SXGA(1,280×1,024))と決めて、時間がかかることを前提にその開発検討から始めていた。私がまだ1号機のプロジェクトマネージャに横滑りする前、私も参加して国内外の受光素子メーカーに対してデジタルカメラ専用 CCDの開発受託の可能性を打診したが、1995年のこの時点ではまだコンシュマー用としては45万画素のデジタルカメラしかなくて高画質デジタルカメラ市場の可能性は予測されておらず、それほど売れるはずはないと思ったのだろう、どのメーカーからも色良い返事は帰って来なかった。それでも何度かの交渉をした結果、CCDの量産実績の少ない N社が受託してくれることになり1号機の開発と並行して2号機の計画が具体的にスタートしたのだった。スタート前の1995年9月 N社との相模原事業場での打ち合わせ時、「140万画素ものデジタルカメラがいったい何台くらい売れるんですか?」と聞かれ、私は「当社は20万台売るつもりです。」と答えた。当時はまだパソコンの多くのディスプレイモニターが CRTで解像度もVGA(640x480)が主流の時代で、そのモニターに表示しきれない大きな画像を撮影するデジタルカメラが20万台も売れるという説明は出席者から一笑に付されたと感じた。しかし我々はパソコンのモニターに表示する用途はそれほど重視しておらず、あくまで従来のカメラユーザーがプリントするためにデジタルカメラを使用することを想定しており、 K部長の「カメラ市場は良い商品なら 10万円の商品が年20万台以上売れる市場だ。」と言う読みの受け売りだったが、それを説明してもカメラ市場やカメラユーザーの特性を知らない人たちには理解できなかったようだ。
それが1号機が発表されて今までのデジタルカメラとは異質なプリント画質をメディアが取り上げる機会が増えるに従い、今まで関心を示さなかった受光素子メーカーがみんな手のひらを返したように「次は何百万画素の受光素子を作ったらいいでしょうか?」と御用聞きのように訪れるようになった。これがデジタルカメラの「画素数競争」の幕開けである。
1号機が発売されておよそ半年後、元研究部隊が担当する2号機は八王子事業場での数台の試作評価を経て、開発部隊全員が長野県の自社工場に場所を移して生産に向けての開発を進めたが、工場技術が参加して台数を増しての最終的な試作段階に入ると不具合が多発し進捗が思わしくなくなった。それまでに生産立ち上げの経験が殆どなかったリーダー始めメンバー達も評価の度に山ほど報告される不具合を前に、右往左往するだけで優先順位をつけての原因解析や実効的な対策検討が手につかなくなったようだ。事業推進部のトップに毎週進捗報告に訪れているプロジェクトリーダーのS氏の表情からも次第に余裕が消えていった。
計画した生産開始日が近づくにつれしびれを切らした担当役員のKk常務からは「お前が行って指揮を取れ。」と2号機のプロジェクトリーダーを私に変えるとの意向が示された。しかし2号機は全体工程で行けば今がまさに8合目に差し掛かっているはずで、ここでリーダーを変わっても私が詳細な設計仕様を理解して不具合原因やその対策案を適切に判断するにはかなりの時間がかかるから、進捗するよりも却って遅れる可能性のほうが大きいだろうと考えた。しかも自分たちだけでは出来なかったと思えば、彼らの自信を奪うだけで成功体験にはつながらないから3号機以降の開発を考えたら決して事業全体のプラスには働かないと判断しその場は返事を保留した。その上で K部長に「出来ないものは私が行っても出来ないかも知れませんよ。せめてもう少し日程を下さい。」と相談すると K部長からは「誰も自分の本当の力なんか分かっちゃいない。最初からここまでと決めたらそれ以上は出来ないが、出来ない目標を示して必死で頑張って出来たところがそいつの実力だ。1号機だって最初から1年で絶対出来るなんて思っていなかったが、お前だって1年と言われて必死で頑張った結果1年が現実になった。最初から2年と言われればそれ以下では出来なかったはずだ。」と言われてしまった。今まで長いこと開発を続けてきて、それなりに「妥当な挑戦的」目標を立てて組織を動かすことも心得ていたつもりだったが、体育会系の K部長のこの一言には今までにない衝撃を受け日程変更の希望は捨てた。そこで「とにかく工場に行って様子を見てきます。」とだけ言って生産立ち上げの工場現場に出向いた。工場に着くとリーダーを始めメンバーたちは見るからにプレッシャーからくる睡眠不足やストレスで青息吐息の状態で意気消沈しており、私の顔を見ると1号機の時と同じように私が傀儡として采配しに来たのかと疑ってビクビクしているのが目に見えた。
結局、私はそんな中途半端なタイミングでリーダーを変わっても良いことは一つもないし、何より戦意を失ったままの兵隊で勝ち戦は出来ないと判断し、徹底的にリーダーのバックアップをすることに決め、リーダーのS氏にはそのことを正直に話した。そして全員を集め「今が胸突きの八合目だ。頂上を極める前には必ず目標が見えなくなって険しい岩場ばかりが目に入るような胸突き八丁があるが、そこを凌いで頂上に立てば今までの苦しさがウソのように晴れて素晴らしい眺めが待っている。1号機も苦しかったが、それを乗り越えたから社内のみならず今のように新聞・雑誌や TVまでもが注目してくれる。その時はあの苦しい場面で諦めなくて本当に良かったと思える。頑張ればその日は必ず来る。今諦めたら今後君たちは後ろ指をさされるが、あと少し頑張れば私達のように皆から拍手で迎えられる。このままで今までの苦労を全て私に横取りされるか、奮起して自分達の成果として今後の糧にするか、決めるのは君たち自身だ。」と話した。この話で1号機の部隊を私が引き受けた時に「1年で生産開始するなんて、そんな手品のようなことが出来るはずがない。デジタルカメラを何も知らないくせに無責任なことは言わないでくれ。」と憤慨して協力を拒否し、その後も私に対して批判的だったリーダー S氏は、「分かりました、言う通りです。このままやらせて下さい。」と一気に表情が明るくなった。
その後生産が始まるまで、工場では1日の終りに各ユニットの責任者による会議を開き、何が問題かの報告を受け、問題点の解析方法や原因に誤りはないか、その対策が的を得ているのか私もリーダーと共にチェックし、その対策が計画通り実行されているかに気を配ると共に、工場での生産立ち上げ経験のないメンバーが工場の技術者達から信頼されておらず動かしきれていないと見て、工場勤務時代の人脈も活かしてバックアップに腐心した。また1号機と同じく品質管理部門の責任者としての立場を活かして、不具合の重要度が低いと判断したら思い切って検討から外したり、日程が困難な対策は次善の策を了承したりした。そしてその都度全体の進捗状況を本社の事業推進部トップに報告し担当役員や K部長の不安を取り除いた。
そんな気配りが効いたのか進捗は目に見えて改善し、加えて私が主査する出来試合のような品質会議はその後は無事1回でパスし、2号機は当初計画から2ヶ月ほどの遅れで生産が開始された。
生産開始に前後して、私は再び今度は2号機の発表会用プレゼンテーション資料を作り始めた。実は社内オリジナルの2号機は、S社に委託した80万画素の1号機のマイナーチェンジ機の開発ともほぼ同時進行しており、こちらは再び T氏がリーダーを務めていた。マイナーチェンジ機の記者発表は T氏が発表プレゼンを行う事になっていたが、自分ではパワーポイント資料の作成までは手が回らず、相変わらず広報部は出来ないと言うので再び私が作成し、T氏にメールで資料を送付して読んでおいてもらい工場から発表会場に駆けつけて記者発表を行った。一方、戦略的に進めたオリジナルの2号機の発表は K部長が自ら行った。
自社オリジナルの2号機が発売されると市場ではその圧倒的な画質に1号機を上回る反響が沸き起こった。加えて2号機は1年前に発売した1号機の対応を競合他社が進める中での発表となり、その圧倒的な画質の向上で他社は再度計画の見直しを迫られたようだった。
この後暫くすると、デジタルカメラの事業が拡大するにつけ古巣のフィルムカメラ事業部や情報機器事業部が併合されるなどして事業推進部は事業部に格上げされて組織が飛躍的に増大していった。そして自分で気づくと私はフィルムカメラの開発時代からそれまでずっと大勢に迎合することなくやってきたつもりだったのに、そしてデジタルカメラ開発に飛び込んでからは周りの反対をバネに本当に我が道を行っていたのに、いつの間にか自分が迎合したと言うよりは大勢の方が自分に合わせて流れるようになってしまったのか、結局は大きな流れに流されているような気がしてきた。それでも市場はまだまだ画素数競争が加熱し、1千万画素の声が聞こえる頃になると、かつての CCDメーカーの人達から投げかけられた「モニターに表示しきれない画素数のデジタルカメラ?」という疑問が今度は「A4サイズプリントでも表現しきれない画素数の写真を撮るコンシュマー用デジタルカメラ?」という疑問になって自らに跳ね返ってくるようになった。

今日の写真は娘の家の庭に咲いていたタイム?だろうか。もう花は枯れてしまったが2週間ほど前の撮影。
性格・能力(デジカメ開発)・考え方・文化論
2017/05/28