e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-1905- 天邪鬼:その5
まだまだ続く。
せっかくS電気との共同開発に合意できたのに、社内の研究部隊の一人のリーダーがそのS電気の電子回路部分の日程に対して「専用ICの開発も含めて1年では出来るはずがない。」と言い張り、上司の部長や周りのリーダー達も同調した。一連の試作確認ステップや画質調整などを日程表に並べると2年でも困難だと社長から聞いた通りのことを言う。一方、社内分担のレンズ系や外装の開発もフィルムカメラのメジャーな従来製品では2年、雛形のあるマイナーチェンジですら1年半というのがそれまでの平均的な日程で、それも何か技術問題が起きるたびに3ヶ月単位で伸びる、と言うのがその頃の実績だったから、例え心臓部分を社外に任せるにしろ全く経験のない製品で6ヶ月もの日程を短縮するなんてあり得ない、とそれも「至極もっともな理由」で計画への協力を拒否された。
この時のやり取りを周りで聞いていた人がいたとしたら、おそらく100人中100人が彼らの主張が正しいと思ったに違いない。私自身「出来る」と思っていたわけではないが「折角のチャンスだ。やってみる価値はある」という思いが半分、「出来なかったらもう開発には戻れない」という不安が半分という状態だった。それと既存事業部の場合は、新製品計画が頓挫したら、その後に続く製造現場は製造するものがなくなり、営業は期待した新製品の売上が飛んでしまうので会社全体としての損失は計り知れないが、新規事業の場合従来の売上にアドオンで ある意味営業も売上増は半信半疑だから、最悪失敗しても開発投資の損害だけで古巣の開発から比べれば何倍もチャレンジできる、という打算のようなものもあった。
そして、S電気側の日程の信憑性は分からないものの、ビデオ製品を何度も生産している事業部のトップが言うことだし、最初にS社に注目した米国のベンチャーとの開発で解像度は低いものの雛形となる専用ICの開発は先行しているのでそこそこの可能性があるだろうし、より事情の分かるレンズ系や外装など自社分担分に関して私には僅かながら目算があった。と言うのもそれまで経験した開発~生産のステップの中で純粋な技術作業に必要な日程は実質9ヶ月程度、残りは開発・品質保証・営業などが技術問題の方向付けに対して建前論を展開し合って責任の押し付け合いから着地点を見出す合意形成を行うための「会議」とそれに至るための事前のデータや資料の準備期間、と言うのが私の見立てで、その多くが無駄な会議をスルーして試作ステップを純技術問題の検討に絞り込めれば1年は「不可能ではない」と言うもの。しかし「確率は?」と聞かれれば全く経験のない新製品では限りなく低いことは歴然で、そんな話は説明しても既存組織のリーダー達には耳すら貸してもらえるはずもなかったし、その時は私自身が概念だけで具体的な策までに展開できていなかったため胸の内にしまったままだった。 ただ、後日件の計画に反対するリーダーと二人だけになった時「本当にあんないい加減な計画に加担するつもりなのか?」と批判混じりに問われた時「すべての不確定要素をリスクという言葉に押し込んで封をしてしまうと何も革新できないと思います。重要なのはリスクを要素に分解して対応策を貼り付けて判断することだと思います。」というような問答をした記憶がある。(多分もっと拙い言葉だったし、私のことを「電子映像の素人が」と見下している相手には伝わらなかったとは思うが)
そしてそこからがK部長の豪腕ぶりだった。社長命令直々のプロジェクトと言うことで、従来の研究組織の部長以下リーダー達を外して新たなプロジェクト組織を編成し、私が開発部門のリーダーにT氏がサブリーダーに据えられる、という人事が発令されてしまった。それまでは正直、私がリーダーを仰せつかるなんて思ってもおらず、私にとっても青天の霹靂のようなプロジェクト発足の10月初めの開発部隊との顔合わせで、私とT氏はメンバーらの「傀儡政権」を見る冷たい視線を浴びつつ前途多難なスタートを切った。そしてそれ以降も影に日向に差し向けられる「元」リーダー達からの指摘を「全責任をとる」の一言で一蹴し、更には彼らの元部下達の「消極的不服従」を強権命令の発動で強引に進めることになった。しかもその時知己のサブリーダー T氏からは「Nさんはカメラ本体にも関わってくれますよね? 逃げるなんて許しませんからね」とまさに背後からもナイフを突きつけられるような一言を頂いてしまった。ただ私の腹の中は、失敗すれば全責任を自分で負うしかないが、成功すれば論より証拠で何某かの経験と自信を製品立ち上げ経験のない彼らにも残せるはずとの思いもあり、この時ばかりはそれまで滅多に使ったことのない「強権」のトップダウンに頼って部下の理解よりも開発日程を優先させた。
次の壁は、古巣のフィルムカメラ事業部への協力依頼だった。「傀儡」で動かせるようになった研究部隊の構成は、前にも書いたとおり研究が主目的だったため電子回路や画像処理の担当者が主体で、商品化に必要な外装や光学系の実務をこなせる設計者は皆無だった。一方それらの設計者は古巣のフィルムカメラ事業部に多くいるが、古巣は既存事業としてのタイトな事業計画を日々遂行しているわけで他の事業を手伝うような「余分な」工数はない。K部長の指示で、それを承知で旧知の顔を思い出しながら協力者の「指名」を行うものの、フィルムカメラ事業部の「元」上司の開発部長にとって事業部を勝手に飛びだした元部下のことを快く思っていないところに厚かましいような指名つきの協力依頼が来たわけで「そんな話は聞いていない」「忘れていた」などと明らかに無視されることの連続。結局私とT氏の交渉では埒が明かず当時の担当役員Kk常務とK部長それに私が雁首並べて当時のフィルムカメラの事業部長に直談判に赴いた。しかし私の元上司の事業部長は終息する前のアナログビデオカメラの事業推進部長を務めていた経過からその事業推進部が解散に至りデジタル画像の研究部隊が生まれる経過に一方ならぬ因縁を抱えていたようで、普段の冷静な人柄には珍しく「自分たちでやるからと勝手に研究部に出て行っておいて、今更手伝ってくれとは何事か」と激怒されてしまい、その剣幕にその場は引き下がらざるを得なかった。しかし最後はこれもK部長が辣腕発揮、社長の一声で無理やり「激怒」にお釣りをつけたように数人の設計者を強引に移籍させる人事が発令されて、やっと社内の設計体制がスタートしたが、その目鼻がついたのは1995年も暮れ。残すは9ヶ月しかなく、協力してくれている S社との進捗打ち合わせでは「御社の方は大丈夫ですか?」と逆に心配されるような日々にますます私の胃は悲鳴を上げ始めた。
そして年の暮れが迫った仕事納めの夜 K部長の主催でデジタルカメラの立ち上げ中枢メンバー数人が呼ばれて忘年会が開かれた。カラオケなどで盛り上がる中 神奈川の北端に住んでいた私は終電を心配して一足先に会場を出ようとした。気づいた K部長が一人で入り口まで送って出てくれてたが、普段年下のものを送り出すことなど絶対にしない K部長の振る舞いに戸惑い恐縮する私に向けて留めのような一言「苦労をかけるがよろしく頼む」が発せられた。私にとってその一言は正に ”がーん”と頭を殴られた感じで、「もう何があっても、このプロジェクトを成功させるしかない。退路は完全に塞がれた。 言われたくない言葉を一番言われたくない人に言われてしまった。」と言うのが正直な気持ちで、帰りの電車の中 座席に座るのも忘れて入口ドアに持たれつつガラスに映る一遍に酔いの冷めた自分の顔を凝視したまま、逡巡する頭の中では密かな決意をした。
『入社以来自分は人におもねることはせず、閥に囚われることを拒否し、ただ技術に忠実であることだけを信条にしてきた。そんな私の性格と矜持を見透かしたようなさっきの一言は Kさんだけからは聞きたくなかった。しかし例えあの Kさんにでも、自分の考えが譲れない時が来るかもしれない。いや Kさんだからこそ間違い無く来る。その時に私にできることは一つしか無い、<辞表で決意を示すこと>しか。 恐らく私が辞表を出したとしても Kさんは一顧だにしないだろうけど、Kさんと仕事したら最終決断場面で何も言わずに引き下がる訳にはいかない場面が 絶対に来る。その覚悟だけは忘れないでおこう』と。
明けて1996年のスタート。私は落ち着かない年末年始を過ごしたものの、休み中に「毒を喰らわば・・・」と腹を決め、慎重に作戦を立てて新年早々 Kk常務と K部長に対して最後の切り札を切った。
残り9ヶ月で生産移行するための秘策とは・・・・試作・生産移行の評価会議を一回でパスさせ、不具合は発見すると同時に私一人の判断で対策案を進めることが出来る体制を作るというもの。本来開発・製造の責任者と品質の責任者は、立法・行政をチェックする司法のように独立していなければならないが、そんな建前論では反対する人たちが主張する「絶対不可能」を「可能」には出来るわけがない。工場でひたすらパソコンに勤しんでデジタル技術を磨いた雌伏5年も無駄ではなかった、今をおいて培ったデジタルの知識を活かす時はない、と思いつつ一方では「民生品のユーザーの実態や要求品質もデジタル製品の機能も良く分からない人が品質判断に参加したら、彼らに機能や不具合原因を説明して理解させるだけで数ヶ月はかかってしまいます。どうせ今の陣容で機能性能の問題点や不具合原因、その対策に日程をかけるのかコストで解決するのかとかマイナーな不具合の市場での影響を総合的に判断して進める判断ができるのは今の組織では私しかいません。残り9ヶ月で生産開始するには試作・生産移行など各ステップの会議での品質判断・責任も全部私一人に負わせて下さい。」と提言した。それを聞いた担当役員とK部長からは「それで出来るならやれ。」と存外簡単に OKが出た。
こうして開発から品質保証に渡る全権の委嘱を取り付けて、その上でその他役員などからの「ありがたい指摘」を頂戴・回避するために都合3回の試作・生産移行会議を最短日程で(形式だけ)開くという基本日程案が確定した。
しかし日程表が出来たから予定通り生産に移行できるわけではない。日々次から次へと勃発する技術問題を即断で対策立案実行しその進捗を管理し、両社間の具体的な分担の線引きや製造上の文化的な違いから生ずる問題の交渉解決など、そこからがプロジェクトリーダーとしての本当の正念場。全権掌握で「皿まで食らってしまった」以上、自分自身と向き合って戦うしかない9ヶ月が始まったが、その詳細はまた。
性格・能力(デジカメ開発)・考え方・文化論
2017/05/10