e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-1904- 天邪鬼:その4
私は再び岡谷に戻ってきたが、天邪鬼の話はまだ続く。
その最大の大勢逆行のデジタルカメラの1号機の企画・開発での最大の問題は、それまで10年近くデジタル画像を研究してきた研究部隊との軋轢だった。
時遡ること十数年、カメラメーカーもビデオカメラの普及や 1981年の SONY MAVICAショック以来、こぞって ビデオカメラの商品化やその後のデジタル画像技術の研究を開始しており、私の在籍した会社にもビデオカメラの商品化に携わってその事業撤退後はデジタル画像記録の研究に絞って継続した部隊がいた。私が新事業推進部に移動した時点では総勢40人近くいたと思うが、彼らの元の仕事はビデオカメラの商品化とは言っても実態は家電メーカーの商品の OEMだったし、その後のデジタル画像技術研究はいずれ自社開発のデジタルカメラをと言う技術シナリオだけで商品化や事業化は画餅に等しく、従ってほとんど実際の大量生産の商品化の経験はない部隊だった。
逆に、私は商品化の修羅場はいやと言うほど潜ってきたがデジタル映像と言っても、パソコン上で画像処理することに不便はないもののカメラについてはビデオ信号をデジタル化して記録するという基本の原理以上には何も分かっていないような状態。
それが移動初日に社長に着任の挨拶に行くと「当社では内視鏡以来何十年と手がけた全ての新事業は育たなかった。しかしもう待てない。今後デジタルカメラはカメラ・電気各社がこぞって市場参入してくる。その中で当社がプレゼンスを示すためには二番手ではだめだ。他社に先駆けて一番最初に発売することが事業成功の絶対条件だ。それには最早一年しかないと思うが既存の研究部隊は最低でも二年必要だと言っている。彼らには任せておけないので何としても一年で商品化して欲しい。」といきなり檄を飛ばされた。
そこから、社内外含め手当たり次第にデジタルカメラの商品化の検討を始めたが、その時の中心要員は3人。K部長と私、そして旧知のT氏。K部長は凄腕の営業マン。私は電気系エンジニアとは言ってもフィルムカメラ担当で画像処理は上記のように素人同然、T氏は光学理論出身の物理屋でメカ屋の畑を経由して7~8年前に私の下に移動してきたが、私自身がフィルムカメラの先行きに疑問を持ち始めて移動を画策していたこともあり、2年ほどで技術の分かる駐在リエゾンとして私が米国に送り出した男で、当然デジタル映像は素人同然。
そんな状況だったが、まずはK部長のつてで私とT氏の二人が台湾のメーカーを訪問してデジタルカメラのOEM/ODM供給の可能性を探った。台湾では当時パソコン関連の周辺機器製造メーカーがデジタル製品を生産しており、異口同音に「うちなら出来ます。」と胸を張って言ったが、民生用製品の開発というくくりで見ると生産規模や商品の大きさなどに疑問を感じ結論は出せなかった。
しかしそれから1ヶ月も経たずして、国内のS電気が米国のベンチャー企業のOEMでデジタルカメラを製造するという新聞記事が出た。しかも時期的には我々の目標としている時期に一致している。S電気は8mmビデオカメラのOEMを受けたこともあるメーカーで社内にはパイプも多く急遽相手事業部トップに面会を申し込んだ。
一方、社内の研究部隊を使って画素数のシュミレーションを行った結果では、サービスサイズのプリント画質を満足するには最低でも百万画素が必要という結論が出た。そこでS電気には「ウチとしてはカメラユーザーが『カメラ』と認めるにはデジタル画像のままではダメで、きれいな写真がプリントできるカメラが必要だと思っている。そうすればカメラユーザーの殆どが買ってくれる。それには百万画素のカメラが必要だ。」と説明し、共同開発を申し込んだ。いきなりの提案にS電気は戸惑い初回打ち合わせは「出来ません。」という返事しかもらえなかった。しかしそれまでの経緯から「ここしか無い」と決めて再三に渡り訪問し共同開発の糸口を探った。その中でも特に3回目の訪問は私にとって忘れられないものになった。
訪問予定の3日ほど前に私はあろうことか夏風邪を引いて熱を出してしまった。前日は休みを取って寝ることにして電話で連絡を入れると当然K部長が「明日はどうするんだ?」と聞いてきた。「這ってでも行きます。」そう答えるしかなかった。で7月末の暑~い一日大汗をかきながら寝て、その当日まだ完全ではなかったが一応高熱は引いたので前日の言葉もあり新幹線で出かけることにした。しかし当時の私は神奈川の北の外れに住んでおり、新幹線に乗るには中央線~横浜線と乗り継いで新横浜に出なくてはならないので1時間半ほど余分にかかり、何とか起きて出かけたものの皆とは2本ほど遅い新幹線になってしまった。途中「とにかく行きます。」と携帯で連絡しておいて後を追った。まだクールビズなんて言う習慣もない時代、電車の中はまだ良かったが灼熱の大阪の太陽の下 背広とネクタイでまだ完全ではない体調で駅から500mほどのS電気の玄関までの長かったこと。普段でも汗かきの私だが、途中薬屋で冷えた栄養ドリンクを買って飲みつつ応接室に入った時に背広の下は全身汗だくと言うよりずぶ濡れ状態だった。おそらくその席についていた人たちはギョッとしたに違いないが、私は席に着くと同時に冷茶と共に出された冷水のオシボリがありがたかったことを今でも忘れない。
そんな思いをして出かけた甲斐あってか、この時S電気側から思いもしない情報がもたらされた。そこまでのS電気の最大の懸念は撮像素子だった。我々の提示した百万画素の撮像をどう実現するか、と言うことで、新しい素子を開発したのではそれだけで1年以上かかってしまう。当時放送用TVカメラ向けと言った産業用途にしか百万画素以上の CCDは存在しなかったが、それらは CCDだけでカメラの値段ほどもする高価なもので、しかもサイズは民生用途の何倍もあるためカメラのサイズも比例して大型化してしまいとても使える代物ではなかった。それがある CCDメーカーから民生用手ぶれ補正付き8mmビデオカメラ用に80万画素の CCDの開発計画があるという。「それしか無い。」即座にそう決めて、そのCCDの開発仕様書を入手して帰って撮影画像のシュミレーションを行った。百万画素の画質との差は若干あるものの、それまでの民生用最多の45万画素の CCDとの画質比較ではその差は歴然と見て取れ、サービスサイズプリントは「写真」と遜色なかった。一気に社内も、S社の側も共同開発が現実味を帯びて、CCDのサンプル出荷に合わせて試作日程を、生産に合わせて量産日程を立て始めた。それが丁度1年後の1996年9月生産開始というものだった。
そして主な電子回路部分はS電気、レンズ系や外装、ストロボと言ったカメラ技術が生かせる部分は社内で、と言う開発分担の大枠が基本的な考え方で、9月の末に共同開発の合意に漕ぎ着けた。
しかし本当の問題はここからだった。・・・・長くなってしまったので続きはまた明日。
性格・能力(デジカメ開発)・考え方・文化論
2017/05/09