e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-1915- 天邪鬼:番外編
話は少し外れるが、前回書いた Sm元会長、というより元社長に不信感を持つようになった経緯から負の遺産の辺りについて、私の立場からの見解に触れておく。(なおここに記したことは極めて主観的な私の認識に基いており、かつ古いので記憶違い、理解の間違いも多いと思います。指摘されれば確認して正します。)
私が入社した年、社長は前任の K社長が就任したが更に 10年ほどして Sm社長に交代した。この時私はまだ社長交代劇の裏側についてはよく知らなかったが、後から知ったところでは当時技術畑出身の F専務との間で熾烈な社長の椅子争奪戦があったらしい。
それを私が察したのは、上記の社長交代の2~3年後だったと思う。当時入社後十数年ほどした私にほぼ順番で海外の展示会への出張の話が出た。その時の出張はアメリカのラスベガスのカメラショーで、私にとっては右も左も分からない初めての海外旅行だった。その旅行先で、ラスベガスとアメリカの拠点であるニューヨークを回ったが、どちらの都市でも同じ時期に出張していた Sm社長やその時のフィルムカメラの事業部長の Sz常務が同席して米国法人主催の夕食会があった。米国法人はその暫く前に Sm社長が米国での責任者時代にそれまでの米国総代理店から販売権を取得して苦労して立ち上げた現地販売会社で、そうした意識が強いのかその夕食会で Sm社長は殊更「我が家意識」を出して打ち解けた会話が交わされた。反面、私はそれまで社長や役員が同席した会議など経験がなかったので分からなかったが、後から考えると Sz常務は終始とても居心地の悪い表情だったような気がする。そしてその出張から帰ってから暫くして、私が勤務していた八王子の事業場に社長が来た際、私は総務から役員応接室に呼び出された。部屋には Sm社長が一人でいてコーヒーを飲みながら雑談をしただけだったと思うが、その中ではその年のベースアップやボーナス支給に対する社員の反応を知りたい様子が伺えた。結局 Sm社長は「私は社員のことを大事にしたい。」そう言い残して帰っていった。
そしてその年の後半になると、技術職場の人間にとって大変な施策が発表された。社内で「A計画」と呼ばれた技術職場の移転計画だった。
当時の技術職場の中心は八王子の工業団地の一角にあった石川事業場で、ここにフィルムカメラや顕微鏡、内視鏡と言った主要な製品群の技術・開発要員の大部分が集合していた。しかし会社規模の拡大に伴いこの事業場が手狭になってきたため、会社としてはそれぞれの事業の主管工場に技術・開発要員を分散させて問題を解消すると共に、開発と製造の距離を縮め相互情報交換をし易くして仕事の品質向上を図るという計画を発表したのだった。その頃の各事業部の主管工場は、カメラと顕微鏡が長野県、内視鏡が福島県にあったので、大多数の技術系社員にとってその計画は転勤、転居を意味するもので、八王子の事業場は計画の発表とともに上へ下への大騒ぎとなった。それは当時の転職情報誌が一晩で八王子の書店の店頭からなくなったと言われるほどの騒ぎだった。
私の元にも私より若い技術者が何人か血相を変えて飛んで来て「この計画が実行されるなら私は会社を辞めます」と訴えた。
しかしその計画は労働組合も問題視し撤回要求が出され、発表から半年を経ずして何も実行されることなく取り下げられて、大騒ぎは嘘のように治まった。(私の立場ではもう確かめようがないが、この時の労働組合の委員長が その後の Kk社長だったような?)そして、その終息の後ほどなくして Sm社長がフィルムカメラ事業部の開発の半期に一度の会議に異例の出席をして「あの計画は私の本意ではなく、仕方なく発表したものだった。皆さんの意向を踏まえ技術職場は八王子市とも相談し近くの用地を買収して新しい拠点を作りそこに移転をする。」と明らかにした。その会議には 事業部長の Sz常務も出席していたが、私たちは「じゃぁ、あの騒ぎは何だったんだ? カメラ事業部の開発に社長が個別に説明に来るのは何故なんだ?」と割り切れないものを感じつつも、とりあえず転居はしなくて済むという話に胸を撫で下ろした。しかしとりわけ私はその直前個人的に社長から「社員が大切」と言う言葉を聞いていたので、その社長が本気で反対したならあの計画は表面化しなかっただろうに、とより一層この推移に疑問を抱いた。そしてこの騒ぎは計画を提案したとされる F専務やその系列の Sz常務が騒ぎの責任を取り退任することで幕が引かれ、 Sm社長の体制は一層盤石なものとなったが、そこに至って初めて「そうだったのか、会社のトップの間ではそうした駆け引きがあるのか。」と会社というものの内情が表面とは全く違うことがあり得るんだという現実を見た思いがした。
更にそれから数年後、バブル崩壊を引き金とした山一證券の事件などで大手の会社の財テク損失の問題が顕在化すると、一般社員の間でも「ウチはどれくらい損失があるんだろうか?」という心配の声が聞こえ始めた。と言うのも一時期 Sm社長は社員を前にした説示などで、本業の営業損を穴埋めする「財テクの利益」や外国債による資金調達の話を誇らしげに披瀝していたからで、世の流れからすればバブル時代の「財テクの利益」はその何倍もの「財テクの損失」となって跳ね返ってくるはずだった。しかしどうした訳か当時の業績報告では大きな財テク損の話は出ずに、いつしかバブル崩壊や財テクの話も過去のものとなって忘れ去られていったかに見えた。
時は流れて、Sm社長は会長、最高顧問となっても隠然と人事を左右し、社長は「デジタルカメラを1年で立ち上げろ」と檄を飛ばした Ks社長からその後デジタルカメラ担当役員になった Kk社長へとバトンタッチされていった。にも関わらずデジタルカメラの躍進で誕生した映像事業部の事業部長には予てから Sm顧問の意にそぐわなかった K部長が就任することを頑として認めず、代わりに自らが社外から招いた Kmフィルムカメラ事業部長を据えさせた。 Kk社長はデジタルカメラ事業の第一の功労者 K部長を事業部長にするようにかなり頑張ったようだが、何故か最後は Sm最高顧問の意向は無視できなかった。結果、デジタルカメラを一緒に苦労して立ち上げてきた K部長も私も T氏も立ち上げ中心メンバーはごっそり会社を去ることになった。最後に私が Kk社長に退職の挨拶に行った時、30分ほどの時間だったが辞表が受理された後でもあり私も敢えてその話題には触れなかったが、Kk社長の寂しそうな表情は今でも忘れられない。
それより少し前、当時は次期社長と目された財務担当役員の健康理由の辞任や、業績にも関わらず短すぎる Ks社長の任期など、傍から見ていても幾つかの不自然な出来事があったものの、損失問題が表面化することはなくそうした人事と絡めて考えることもなかった。それが 2011年になって突然スクープ雑誌の記事やイギリス人の社長誕生と直後の解任劇によって損失処理問題が明るみに出た。その時点になってやっと私にもそれまでの幾つもの疑問が一つに繋がって腑に落ちた。社長の椅子というアメは「巨額損失隠蔽」という毒と表裏一体で、どちらも飲むことを拒否するか、さもなければ一旦飲んでしまったらその他もろもろの軛からも辞任以外逃れる術はなかったんだろうと。
実は個人的に事件の年の年賀状で当時の Kk社長から「たまには遊びにおいでよ」と言う懐かしい文面を頂いたこともあり、長居した社長の椅子もそろそろ潮時と踏んだのかと2月のある日秘書室に電話して Kk社長との面談を申し込んだ。しかし Kk社長はその時丁度ヨーロッパに渡航中とのことで、後日帰国した辺りにもう一度電話することにした。それが帰国とほぼ同時にイギリス人社長への交代のニュースが流れたのでびっくりして「昔話をしている場合ではないだろう。会長に退いて時間が出来てからでいいだろう。」と電話は控えた。それが、みるみるうちに日本中を騒がせる事件へと発展しついに訪ねる機会を失してしまったが、何故あの年に限ってそんな文面をくれたのか? あの時もし訪ねていればどんな胸中が聞けたのか? おそらくは Sm元社長の負の遺産は自分の代で全て清算して、しがらみのない次期イギリス人社長を介することで連鎖の鎖を断って意中の次次期社長に託したかったのでは? と思うが、今となっては永遠に解けないだろう疑問が残ってしまった。

今日の写真はジャーマンアイリスだろうか? 道端の雑草地に艶やかに咲いていた。
性格・能力(デジカメ開発)・考え方・文化論
2017/06/09