e日記風 独り言

#気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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楽 天 の 商 品

-2006- オウム事件
サリン事件などの首謀者・実行者たちの死刑が執行されたというニュースが朝一番で飛び込んできた。
サリン事件に関してはここでも書いたが、私自身の転機となった体験とも重なったので忘れられない出来事になり、その後は住んでいた神奈川北部の町を上九一色村で逮捕された犯人たちが護送されていくことで、マスコミのヘリなどが家の真上を飛び回り周辺が騒然となったなど、いくつか関連した記憶が数珠のように繋がって浮かんでくる。
そうした中で、心の中ではもう一つの思いも常に新たになる。
それは「人をどこまで信じるか? どこまで恭順するか?」と言うこと。当然 信じる=盲従 ではなく、尊重しつつも自分の信念と相容れない時にはそれをぶつける、ぶつけられるだけの信頼関係と言うことになるんだが、現実場面ではその判断は難しいし、結果として二者択一を迫られることが多い。
念願の開発という職場に入って、それまで全く知らないカメラ設計と言う世界で自分より数段能力の優れた上司や先輩に巡り合った時に、自分の稚拙な考えに蓋をしたままその人達を信じてついていくことは簡単だったし、経験の殆ど無かった私にとってはその方が良い選択のようにも思われた。実際に昇進過程や自分の結婚式などの場面では特定の上司から従うようにあからさまな干渉も受けたが、なぜか私の中にはそれを躊躇させる、いさぎよしとしない心も同時にあって、殆どの場合は蓋をせずに頑なに生きてきた。
しかし奇しくも、このオウム事件と同期した私自身の人生の転機で、その信念を崩さざるを得ない場面に自らを投じてしまったことに後になって気付いた。この時も私は自分の信念に従い、その人生の転機以降信じてついていった人との決別も覚悟して、私なりに辞表を書いたのだが幸か不幸かその辞表は無駄になってしまった。
オウムの一連の事件が語られるたび、医師や能力のある人達がなぜあそこまで怪しげな教祖を盲信してしまったのか?と言う疑問が論議される。挫折などの経験は人それぞれに違うから同じには論じられないが、憧れた人、世話になった人を信じることと盲従することの境界を意識しないといけないのだとつくづく思う。

今日の写真は珍しい白いムラサキツユクサ。
2018/07/06