● K さんとの巡り合い - CAMEDIA開発秘話
お父さんには、K さんというとても頼りになる上司が居ます。

K さんに始めてあったのは、入社して間もない 営業研修の時でした。 営業の最前線で、まだ若かった K さんは いつも営業成績が抜群で、 2番目以降の人の 2倍以上の売上を上げていました。 でも、一緒にお店に連れて行ってもらっても、あまり取引の話は しません。 他の人と行くと、お店に入ってから出てくるまで、ずーっと 今月は いくら買ってくれるかとか、もう少し買って欲しいとか、そんな話しか しないのに、K さんはお店に行っても ずーっと世間話しかしません。 そして、帰り際 もう腰を上げようかと言う頃になって、初めて 「今月は この製品とこの製品を、これくらいずつでいいですよね。」 という調子で、お店の人も 「はい、それでお願いします」と 簡単にOKしてしまうのです。 今でもあれはとても不思議です。
"商売の神様" これがその時に思ったことです。
でも、これは序の口で K さんのエピソードは、話し始めたら きりが無いくらいにいっぱいあります。

<893より怖い人>
これが、多分社内では一番多い意見でしょう。 上記の営業研修のはじめの頃、一緒に K さんの車で (K さんは、都内で電車の方が絶対に速いとわかっている ところでも、必ず自分の車で行きます。) 何時ものように出かけました。 銀座 4丁目の交差点を左折しようとしたときに、信号はもう 黄色から赤く変わるのに横断歩道を歩いている人が居て、 なかなか左折できません。 6月の暑い頃で、車の窓を全開にした車内から突然大声で 「テメェーコノヤロウー、どこにメンタマつけてやがるんだーっ」 銀座ですから、もう次の信号待ちをしている人が交差点にはたくさん 立っています。お父さんは左折の助手席ですからその人たちから 丸見えです。 思わず 恥ずかしくて、下を向いてしまいました。 でも K さんは、そんなこと平気で、何も無かったかのように 運転を続けています。 「この人、確か KO幼稚舎からKO大学まで卒業した人だと聞いたけど、 間違いだったかな?」 と思わず疑りました。 でも、そんなことはそれからも日常茶飯事でした。 特に車を運転していると、周りの車に怒鳴ってばかりです。 ・・・・会社の中でも、あまり変わりませんが。 電話で怒鳴っている姿を、だれでも 1度や2度 見たことがあるでしょう。 「怖い人だ」 そう思われているでしょうね。
でも、お父さんは なぜか怖いと思ったことはありません。 怒鳴られたこともあると思いますが、それほど強く怒鳴られなかったのか すぐ忘れてしまいます。 むしろ普段は、とても気がついてフォローしてくれるやさしい上司だと 思っています。

<お金の天才>
営業ですから、常に売上や値段など 数字の仕事です。 でも、もうえらい人ですから 細かなことは自分ではやりません。 若い人が実績を集計して報告していると、話の途中で いきなり 「それは違う、もう一度計算しなおせ、そんなはずは無い」 などと言い出します。 担当者は、何回も確かめてから報告に行きますから、突然そんな 事を言われても、何が違っているのかすぐにはわかりません。 オタオタしながら、「でも、これは・・・」などと言い訳していると まったく違う観点から、「これはこれくらいで無きゃおかしい」 と指摘します。そして それがほとんどの場合正しいのです。 長年、営業として真剣にお金の勘定をしてきた、経験と勘でしょうか。

<技術屋よりも技術が読める>
文系の出身で、営業をやってきましたから、デジタルカメラのように 技術力の高い商品は、普通の人ではよくわかりません。 どんな部品を使えば どんな商品が出来るとか、この仕様がいいか悪いか とか、普通の営業の人は避けて通る話です。 でも、ユーザの目から見た技術と言う判断では 技術者より優れています。 これが絶対できる、必要だ、となったら頑固に引きません。 最初は、出来ないと言っていた技術者も、どうしても「やれ」と 言われて、仕方なくやると、なぜか言われたとおり出来てしまうことが 多いのです。
高画素のカメラも、ダイレクトプリントも、みんな K さんの 描いた夢から始まったのです。 きっと、自分のかかわった商品がすごく好きなんですね。

<社内には敵ばかり>
上に書いたように、社内でも間違ったことを見つけると、例え目上の人でも噛みつきます。 デジタルカメラのプロジェクトがスタートして、まもなく K さんが「部長」に昇進しました。 でも、後日談で聞いたところでは、そのとき推薦した上司(現○長)は他の人たちから猛反対されて、とても説得に苦労したそうです。 スタートから 5年足らずで、売上 1,000億円と言う日本でも稀な事業を興したにも拘わらず、しかも社内では一番大きな売上の事業に成長した今でも、それほど偉くはなっていません。 きっと今でも、ほとんどの人が偉くなって欲しくないと思っているんでしょうね。 これは、絶対に内緒の話ですよ。

<もうこの人からは逃れられない>
プロジェクトがスタートして、まもなく 1995年の暮れに K さんが皆を集めて忘年会をやりました。 遠くまで帰らなくてはいけないお父さんが、ちょっと皆より早く会場から出てくると、出口まで 1人で見送ってくれた K さんから「苦労かけるがよろしく頼む」 と一言 言われたのです。
その一言は正に ”がーん”と頭を殴られた感じでした。 「もう何があっても、このプロジェクトを成功させるしかない。逃げられない。 一番言われたくない人に、言われたくない言葉を言われてしまった。」と言うのが正直な気持ちでした。
あのKさんに「苦労をかける」と殺し文句を言われてしまって、苦労しないわけには行きませんから。
でもその一方で、実はこれを言われてかなりなショックを受けて電車で帰る途中、電車のドアのガラスに映る自分の顔を見ながら、密かに決意したことがあります。
『例えあの Kさんにでも、自分が譲れない時が来るかもしれない。いや Kさんだからこそ間違い無く来る。その時に私にできることは一つしか無い、<辞表で決意を示すこと>しか。 恐らく私が辞表を出したとしても Kさんは一顧だにしないだろうけど、Kさんと仕事したら何も言わずに引き下がる訳にはいかない場面が 絶対に来る。』という妙な確信がありました。
この確信は、ずっと後になって一回だけですが やはり現実のものとなりました。 そして、辞表でもKさんを動かすことは出来なかった、というのも予想したとおりの現実でした。この続きはこちら。

<もう一つ会社を作る>
社内の猛反対を押し切ったプロジェクトが始まって、2年程して順調なスタートが切れたとわかると、会社のマネージメントの会議でプレゼンテーションした K さんが「 今のうちは、売上全部で 2千億円の会社だ。日本には カメラだけで 2千億円の売上を上げている会社がある。我々は 5年後には、新しい事業だけで 2千億円の売上にして、もう一つの会社を作るんだ」 と言ったのです。
誰も、それを本気では聞いていませんでした。 お父さんも、「新しい事業を成功させるかもしれない。 でも本当にもう一つ同じ大きさの会社が出来るほどの事業になるかな?」 と言うのがそのときの本音でした。
でも、それはだんだん本当になりつつあるのです。 1995年にデジタルカメラの仕事を始めて、1996年の 10月に初めてのデジタルカメラ 「C-800L 」 を発売し、5年後の 2000年には 売上が 1,000億円を超え、2001年には 社内でも一番売上の大きな事業になってしまいました。 5年で0から売上 1,000億円のビジネスを作る、そんなことは日本中捜しても、いや世界中探したって幾つもはないでしょう。
それを目の当たりにできたなんて、一翼を担えたなんて、まるでドラマの中のようだった、何て幸運だったんだろう、今でもそう思います。

もう一回事業を立ちあげたい
しかし、1,000億円の売上が実現できた頃から、自分の中では別の気持ちも芽吹き始めました。
あの夢の様な経験はどこまでが幸運で、どれくらい自分の力が効いていたんだろう?という疑問です。 製品の開発については、1年で商品化という日程目標や製品の大まかな仕様以外、設計や他社との交渉から日々の問題対処などほぼ全てを一人で切り回したものの、後から考えれば 何であんなに沢山の困難な事をやり遂げられたんだろう? という疑問が大きく、確たる自信のようなものはないのです。だから、もう一回何かを成功させてみたい。そう思い出しました。 でもそうそうチャレンジャブルなテーマはないし、幾つかのテーマでは目標の売上に到達せず失敗の自己評価しか出来ませんでした。

新しいメモリカード
開発日程最優先のデジタルカメラ1号機こそ内蔵メモリしか搭載していませんでしたが、2号機からは写真データを記録するメモリカードを使うようになりました。このメモリカードは当時 SDカード意外に メモリースティックと スマートメディアという 3つの規格が併存しており、CAMEDIAは スマートメディアという1番外形の大きなカードを使っていました。しかしデジタルカメラも小型化競争が激しく、カメラ本体を開発する部隊からは少しでも小型化するためにメモリカードも小型化したい という要求が出るようになりました。
当時スマートメディアというメモリカードを使ったカメラを発売していたのはオリンパス以外には F社だけで、そのメモリカードは T社が中心になって規格を作り T社が製造し、カメラメーカー以外の周辺機器を扱うサードパーティも販売していました。サードパーティは大手量販店中心の営業で営業部隊も少なく少ないマージンで販売するので、世界中に販売網を敷いてどんな小さな販売店にも届けなくてはならないカメラメーカーと比べると安い価格で販売したりするので、カメラメーカーでは在庫分の利益が出なくなることも多かったのです。
実は当時、「外形を小さくしたい」という開発部隊の要求以外に、こうした事情で営業からも サードパーティによって市場価格が乱されるようなメモリカードは儲からない、という不満が強かったのです。
そこで、どうせ新しくメモリカードを企画するならサードパーティが販売できないような規格は出来ないものか? そう言う疑問が湧いてきました。当然 もう一社の F社でも同じ問題を抱えていたので、製造元の T社を巻き込んで協議がスタートしました。
独禁法などの対象にならないようにするにはどうしたらいいか、専門の弁護士とも相談を重ね ”デジタルカメラ専用のメモリカード規格を作って、カメラメーカーだけが販売する”というアイデアで話が進みましたが、製造元の T社は最終段階で自社ブランドも売れないと知ると規格化を渋りました。しかし当時はメモリカードの大部分がデジタルカメラ用に使われていたこともあり、F社の N氏と組んで二人でタフな交渉を繰り返して最後は T社も折れて規格化へと進展しました。
最後の最後に いよいよ会社間での契約書にサインするという段階になって、Kさんが突然 「もう一社の韓国のメモリメーカーを参入させろ」 と言い出しました。 T社の一社供給だと競争がないためどうしても価格が高止まりになってしまい、メモリカードの市場競争力が失われる という理由からです。これは当然至極な理由ですが、今まで T社ブランドの販売を断念させても何とか協力しつつやってきた T社にとっては降って湧いたような話で、規格化の話は暗礁に乗り上げてしまいました。
しかし一旦”正論”を振りかざしたら絶対に曲げない Kさんですから、何とか T社を懐柔するしかありません。
でも T社にしたって当然、今まで目の敵にしてきた競合他社にも作らせるという話が通るわけがありません。絶望的になりながらも何度か交渉を重ね、これが最後という T社での会議後 帰りがけのエレベーターに乗る寸前、見送りに出てきてくれた事業部長と交渉担当の K氏に対して、エレベーターのドアが開きかかったのを確認して「私の上司は言い出したら聞きません。もし御社の譲歩がなければ本気でリセットするでしょう」とだけ暗い顔で伝えた。決して演技ではなく。それを受けて、最後の判断をそのメーカーの事業トップが当社に伝えに来るということで、当社に席を設けた。