● お父さんのデジタルカメラ  開発秘話

2003/07 初回アップ


このページは訳あって、現状どこからもリンクされていません。 いつか、子供達が仕事をするようになって、 お父さんがどんな仕事をしていたのか知りたいと思ったときに 読んでくれればいいな、そんな独り言のページです。
そんな訳で 社内外の親しい方だけにそっとお教えしている状況です。 でもいつかリンクを張って、大々的に公開できる日を望んでいます。 というわけで、このページへのリンクはご容赦ください。

・・・と初回は書きましたが、もう20年以上も経過しリタイアした人も多いし私の恥も十分に時効かと思いリンクすることにしました。
<今でこそ ○百万画素だけど>
いま、日本で一番ほしい商品は?というアンケートでトップに 上げられるのは、デジタルカメラ いわゆる「デジカメ」です。 でも、このデジタルカメラが市場に登場したのはそんなに古い 話ではないのです。 何十万円もする、業務用を除いては 1994年にパソコンのアップル社が QuickTake-100 を発売し、1995年に Casio が QV-10を発売したのが 今のような低価格のデジタルカメラの始まりです。
お父さんがフィルムカメラの開発からデジタルカメラに移ったのも ちょうどこの頃でした。 その頃の上記のデジタルカメラは、画素数が少なく画質が悪く、とても フィルムカメラを開発していたお父さんが、写真を撮る「カメラ」と 呼べるようなカメラではありませんでした。
「なんだ、これはカメラじゃなくてオモチャだ。」と思ったんですが、 でも、家に帰って小学生の子供に見せると 3時間くらい自分や家族の 顔や体を撮っても飽きることを知りません。 それを見ていて「これは、商品としては面白い!」と思いました。
でも、5万円以上する商品をそんなに多くの小学生の子供は買えません。やっぱり お金を出してくれる大人が「カメラ」と思って買って、その期待を 裏切らない「写真が撮れるカメラ」でないと長続きする市場は出来ません。

<デジタルカメラ市場を作った男>
このことを、誰よりも知っていた人がいます。当時のお父さんの上司で、「商売」に関しては神様のような K さん(当時次長)です。
「10万円という、コンシューマ市場のマジックプライスで、サービスサイズの プリントがきれいに撮れるカメラが出来れば、デジタルカメラの市場は あっという間にフィルムカメラを抜いてしまう。」と信じていました。
1995年に、Casio が QV-10を発売する前に、当時の電子部品の進歩と コストダウンを見て、「画質でフィルムカメラに負けない商品を作って 2000年には 1,000万台、10年後の 2005年には 4,000万台の市場を作るんだ。」 とあっちこっちで言いふらしましたが、誰も信じてくれる人は居ませんでした。
当時、QV-10 が出て やっと市場が 20万台くらいになるかならないかの 時ですから当然です。
でも実際の市場は 2000年の日本写真機工業会の出荷統計で、1034万台でした。 今から考えると、5年先の 50倍の規模の市場を、誤差 数 %で予測したという、 おそらく前代未聞の精度の市場予測でした。
「商売の神様」の所以です。 この辺りの話は、日経ビジネス1997年3-3号の 43P 「後発で勝つ "勝機は1年後" スピード開発で逃さず」 を参照してください。

<想い出はきれいでなくては>
そして、K さんのこの神業のような市場予測と「フィルムカメラに負けない画質のカメラを作りたい」という私達の思いが、現在のデジタルカメラの市場を作り上げたと思っています。
今でこそ、「このデジタルカメラは ○百万画素」と皆が言いますが、当時は誰もそんなことは言いません。 当時のデジタルカメラに使う CCDというICは、ビデオカメラ用のものしかなく、テレビに映すためのICでしたから、テレビ画面の解像力以上に画素数があっても無駄です。
画面の大きなテレビでも、拡大されて画像が粗くなるだけです。これは、テレビの放送電波の規格から決まっています。 だから当時の ビデオ用の CCDというのは 普通で 35万画素くらい、多くても 48万画素くらいでした。 でも、これではTV画面で見るのには良くてもプリントにすると粗すぎてきれいな写真にはなりません。シュミレーションでは 100万画素あれば何とか、サービスサイズできれいな写真がプリントできそうでした。
でも、ビデオカメラでは 35万画素しか必要ない CCDを、まだ10万台も売れていないデジタルカメラ用にいきなり 100万画素以上で作ってくださいと言っても、どの CCDメーカもまともに取り合ってはくれませんでした。当たり前です。
「そんな CCD作っても、絶対に儲かりません。」「テレビや パソコンの画面は 50万画素くらいしか表示できないのに、表示しきれないような写真が出来る画素数のCCDを作っても、だれも使わないと思いますよ」 と決まって言われました。
でも、ずーっとフィルムカメラをやってきたお父さん達にとって写真はテレビやパソコンの画面で見るものではありません。 「写真」というのは、「紙のプリント」しかないのです。紙にプリントしたらきれいに見えないと写真じゃなくて、きれいな写真が撮れないと「カメラ」じゃない、それは考えるまでもないことです。

一生に一度の入学式や結婚式の写真が、粗い汚い写真だったらみんながっかりしてしまいます。 そんなカメラ 2度と使ってくれません。 「カメラ」は、人生の楽しいときに何時も一緒にある。
「写真」はきれいだから、想い出も楽しい。 そんなカメラを使ってほしい。 フィルムカメラがいずれなくなって、デジタルカメラだけになったとしたら、フィルムカメラより沢山のカメラを使ってほしい。

( 日本オプトメカトロニクス協会 「光技術コンタクト」 2002年1月号参照) お父さん達にはそんな想いがあったのです。
<誰も本気では聞いてくれなかった>
だから、断られても断られても「140万画素の CCDを作ってください。」とあちこちの CCDメーカーにお願いして回わりました。
熱意が通じたのか、やっと N社さんが作ってくれるという話になりましたが、開発に 1年半かかると言われてしまいました。 CCDが 1年半かかるとカメラが出来るのに 2年以上かかります。 2年かかると、他のカメラメーカに負けるかもしれない、他のカメラメーカに負けたらうちにはもうチャンスが無くなる、そんな危機感があったのです。
でも、本当に幸運でした。その頃丁度 ビデオカメラ用として "81万画素"のCCDを作っているという話が別のメーカから入ってきました。 81万画素なら、今までのデジタルカメラとは比べ物にならないくらいきれいな写真が撮れる、これしかない。私達は瞬間にそう思ったのです。

<1年で初めてのデジタルカメラの開発が出来るはずが無い>
81万画素のCCDが出来るのが 1996年 6月、それを使ったカメラを 1996年10月に 発売する、そう決めたのが 1995年 10月でした。当時の社長は「ウチのブランドでは2番手になってしまったらプレゼンスがなくなってしまう。絶対に1年で発売しろ!」そう言って檄を飛ばしました。
でもそれまで何十機種も開発したことのあるフィルムカメラでも、その当時は 1機種開発するのにいくら短くても 1年半かかる、戦略機種は 3年かかっても仕方ない、それが常識の中でまったく作ったことの無いデジタルカメラを 1年で作る、それは誰が考えても 無謀な計画だったと思います。
社長の命令が有るからと言っても、当時の新事業部には設計者はいないのでフィルムカメラの事業部の助けを借りないと実際の開発は進みませんが、協力を依頼した元の職場の上司からひどく叱られたり、無視されたりしながらも一緒に新しいプロジェクトに加わった T さんと、「とにかく 今は我慢しよう。いつか成功すれば 自分達の主張が実証されるんだから」 そう言って色々な辛辣な言葉も聞き流しました。
一つの救いは、元の職場でフィルムカメラの開発が何故 1年半もかかっていたのかその理由は良く分かっていました。 1年の計画でスタートして、もし 1年半かかったら、カメラを製造する工場の人たちや、それを売ってくれる営業の人たちが皆 困ってしまうのです。
だから、念には念を入れて計画し、一人の責任で全てを決めることが出来ないようなシステムになっているのです。
「だめで元々、工場も営業もデジタルカメラに期待なんかしていない。でも何とか 1年で出来る可能性もある。うるさいことを言う人さえ居なければ1年で 何とかできる可能性はある。」それが一筋の光でした。
いつも T さんもお父さんも 「B型」の楽観主義です。
そして、今では皆に嫌味を言われたり叱られたりしたことも反骨心を煽って良いバネになったと感謝しています。

1年で開発するためには、コンセプト立案・仕様決定・設計・品質検討全ての責任をお父さんに任せてもらって、それまでフィルムカメラで 10回以上もやっていた会議を 3回に減らすこと、問題が出ても会議で決めないで問題の原因が分かったらその場で決めること、そう宣言してスタートしました。
でも、実際には本当に出来るという自信は勿論ありませんでした。実際に出来たのは、本当にいろいろな人の協力と、幸運があったおかげです。

<本当に発表会の日が来た>
そして、実際にこのデジタルカメラが発表できるようになった時、記者の人たちを集めて新製品発表会を開くことになりました。
1996年 8月 24日のことです。時代の最先端のデジタルカメラの発表です。
できればマルチメディアのツールを駆使して発表会をやりたい、と思いました。パワーポイントと言う今では誰でも使うプレゼンテーション用のアプリがありますが、その時は誰かにこのプレゼンテーションを作って欲しいと思っても、社内には誰も作れる人がいませんでした。
「誰かに頼むくらいなら、自分でやった方が早い」迷わず、お父さんは 自分で記者発表用のプレゼンテーションを 8月上旬の夏休みを 1週間潰して作ったのです。 マルチメディアらしく、製品の写真もふんだんに盛り込んで・・・ でも、この製品の写真を撮ったのは、実は 発表するカメラ自身を使って撮ったのです。 「本当に便利で価値のある商品が開発出来た」プレゼンテーションを作りながら、ますます自信が湧いてきました。
お父さんにとっても、これが実は初めての パワーポイントでした。それでいきなり、何百人という記者の人たちを前にして自作自演でプレゼンテーションをしたのです。「怖いもの知らず」とは、お父さんのためにある言葉のようです。 そして、この発表会でパワーポイントは完全にマスターしました。

<百聞は一見にしかず>
そして、実際に 81万画素のデジタルカメラを発表すると、皆が そのきれいな画質に驚いてくれました。
一生懸命に何度説明しても、最初 2-3万台しか売れないだろうと言っていた営業の人たちも、市場の反応を見て慌てて「もっと作れ、もっと ・・・」と注文を増やしてきたのですが、計画してないものは、部品も用意できていないから 急には出来ません。
でも、「商売の神様」はそうしたこともお見通し、営業が出した注文の何倍もの生産を「勝手に」準備しておいたのです。 こうして、社内で 2-3万台しか売れないといわれたカメラは 8ヶ月足らずで 20万台以上生産・販売されたのです。
そして、こんなに売れるのだからもっと作り続けるだろうと誰もが思っていたのに、Kさんは生産が予定の 20万台に達すると次に用意した、画像の記憶を内蔵メモリからメモリカードに改善した C-820Lという新しいカメラに切り替えてしまったのです。
この一号機の C-800Lが市場で話題になったそのときから、部品メーカの態度が一変しました。 1995年の秋に、お父さんが 次のカメラのために 140万画素の CCDを作ってくださいと CCDメーカにお願いに行ったときに、「このカメラは何台くらい売れるのですか。」と質問され、「20万台は売れます。」 と答えたときに、その場は一瞬 シーンとなりました。
デジタルカメラが全部で 20万台くらいしか売れていない、しかもその中心は 5万円前後のデジタルカメラなのに、いきなり 20万円近い デジタルカメラを 20万台も売ると聞いて、誰も本気にはしてくれませんでした。 その場の冷たい雰囲気が、今でも忘れられません。 (結果的には この CCDは何とか生産してもらえることになり、この CCDを使ったカメラも約束通り全部で 30万台以上売れたので、お父さんは嘘つきにならずにすみました。)
このように今までは、いくら頼んでもデジタルカメラ専用の CCDや ICは市場が小さいから作らないといっていたメーカが、向こうから毎日のように会社に押しかけてきては「何でも言われた通り作りますから、仕様をください」と言ってくるようになったのです。
手のひらを反すと言う言葉が本当に当てはまるような出来事でした。

<そして画素数競争が始まった>
そして、有名なデジタルカメラの 「画素数競争」が始まりました。 でも「商売の神様」は、他社に先んじるために 次の手を打っていました。 そう、"81万画素のデジタルカメラ" とほとんど同時に、140万画素の CCD の開発がスタートしていたのです。 そして 1年半後にデジタルカメラ専用の 140万画素の CCDを使ったカメラが発売されたのです。 このカメラの写真は、本当に それまでのデジタルカメラの写真とは段違い、デジタルカメラでも こんなきれいな写真が撮れるのか皆がそう言って驚きました。 そして、そうしたカメラが みんな 10万円以下で買えるようになったのです。

下のグラフはデジタルカメラの画素数の向上と市場規模の関係を示したものです。カメラの高画素化と市場拡大の関係がよく表れています。

Pix of DigiCame

<本当の狙いはプリント>
きれいな写真の撮れるデジタルカメラを作りたい。 でも、写真はプリントが無ければ一般の人には意味が無い。 1機種目のカメラの開発と平行して、このカメラで撮った写真をプリントできるプリンタの開発もスタートしました。 この時も日本中の、写真プリンタを作っていた会社と話をしました。 でも、CCD と同じで、どこも本気では話に乗ってくれませんでした。 デジタルカメラが 20万台、そのプリンタは 1万台売れるかどうか、皆そう考えて ビジネスにはならないと判断したのです。勿論、その頃もすでに画像プリンタはありました。PCからプリントしたりビデオに接続してプリントできるプリンタでした。 でも、「商売の神様」は カメラのユーザの事も良く分かっていました。 普通のお客様は、パソコンの電源をいれてプリンタを接続して、アプリケーションを立ち上げてからプリントするだろうか ?  と考えて No.と答えを出しました。 パソコンを使わないで、カメラからいきなりプリンタにデータが渡され誰でも簡単に、撮った写真がすぐにその場でプリントできたら素晴らしい。 フィルムのように、一旦DPEのお店に渡してから、翌日受け取りに行って・・・ 何て事をしないで、写真を撮ったら1分後には写真が出来る、それが本当の デジタルカメラの魅力だ。そんなプリンタが出来たらプリンタも売れるだろうけれど、デジタルカメラの本当の魅力が PCを使えない人達にも理解されて爆発的な市場が出来るだろう、その夢を実現したかったのです。 でも、カメラだけでも1年で開発するのが無謀だと言われる中で、他社の協力があったとはいえ、ほぼ同時にシステムとしてプリンタまで開発する、自分の会社は勿論、どこの会社もやっていないシステムを作り上げる、それを周りで見ていた人たちは、きっともう怒る気力も無く、「失敗するのを待つしかない」そう諦めたに違いありません。 でも、夢があれば「火事場の馬鹿力」で、信じられないような力が出るのです。 この夢を追い求めて 最後には何とか、1社だけ 開発を引き受けてくれるプリンタの会社を見つけ、カメラの発表と同時に 「ダイレクトプリント」のコンセプトを形にしたのです。
カメラでは開発力で有名な会社も、やっと最近になってこの「ダイレクトプリント」のシステムを実現してきましたが、お父さん達は5年も前にこのシステムを実現していたのです。

誰も考えられないような、とてつもなく大きな目標を作って、それを実現するために必要で具体的なステップを示して、それに向けてまっしぐらに突き進む、皆をそれに向けて突進させる、その結果その目標を実現してしまう、経営者なら誰でも夢見るだろう、そんな神業かマジックのような事を確実にやり遂げる大変な人と一緒に仕事が出来たことは本当に幸運でした。