e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、政治や思想・社会問題に対する勝手な私見を書いてみました。専門家ではありませんが、岡目八目という言葉もある通り、時には本筋を突いていることもあるかも?
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楽 天 の 商 品

-895- 辞め時:続きの続き
更に続けて(回顧録風になるが、「辞める」意識の時系列的な繋がり上省けないので)。
実は、辞表を意識したのは昨日書いた実際の「提出」よりもかなり前だった。
話は 5年以上遡るが、私は 1995年 4月に古巣のフィルムカメラ事業部を飛び出して新規事業のデジカメ事業立ち上げに携わるようになったが、その時 同じ事業推進部にいたのは 私を含めてまだ 4人ほどでしかなく、リーダーは社内でも強面で有名な Kさん。
そもそも Kさんとの初対面は私の入社後 2ヶ月ほどした時。私が新入社員研修の一環で 2ヶ月半ほどの営業研修のため当時のカメラ販売会社に配属されてまもなくだった。2人めか 3人めの引率セールスとして当時飛び抜けた営業成績をあげていた Kさんにカメラ販売店を連れて回ってもらった。そんなある日、今でも忘れられない鮮明なシーンがある。
Kさんは 会社規則に関係なく絶対に公共交通機関を利用しない人で、どんな狭い裏通りであれ自分の車で都内のカメラ店回りをしていた。6月になって蒸し暑い日、銀座にあるカメラ店に寄るため Kさんの運転で助手席に乗せてもらい、晴海通りの銀座4丁目交差点の和光の角を晴海方向から日本橋方向に左折しようとした時のこと。信号が黄色から赤に変わろうとしているのにまだ歩行者が横断歩道を渡り始めた。ドアガラスを開け放した運転席から やおら Kさんが大声で怒鳴った。「コノヤロウどこに目ン玉つけてやがんだ!信号が変わってるのが分からネエのかっ」 恐らく、信号待ちしていた人は助手席の私の顔しか見えないが、声の調子では堅気の人とはとても思わなかっただろう。私は一瞬あっけにとられたが、すぐに下を向いたまま暫く顔を上げられず頭のなかでは「この人幼稚舎からの慶応出身だって言ってたけど、聞き違えだったかなぁ?」などと考えていた。 Kさんのクルマに乗るとそんなことは日常茶飯事。運転は言葉に劣らず荒いから、それまで田舎ですらあまり車に乗ったことがない私は生きた心地がしなかった。
そうした営業研修期間が終わって、Kさんのところに挨拶に行くと「お前は開発なんかじゃ使いものにならん。営業に来い。」と一言。「営業では使いものにならん」と言われたら素直に「そうですね」と返せたと思うけれど、虚を突かれて「えっ?」と言ったきり真意を測りかねて言葉が出なかった。
そんな Kさんが巡り巡って社長直属の組織で 1年以上前から デジタルカメラに関して市場調査や他社の動向調査、新規事業としての戦略立案を行なっており、1994年秋の Casioから QV-10の発売とその市場評価を受けて、社内でも俄にデジタルカメラの事業化が急浮上した。思えば、QV-10が発売された頃、開発部隊のいる事業場の食堂で久しぶりに顔を合わせた Kさんから「おお、お前 今何してんだ?」と声をかけられたことがあった。
そして、それとほぼ同時期、そうした社内の流れを知らないまま、私は面接で事業部外への移動の意思を最終通告するような言動をしてしまった。
後から考えれば、全てが 偶然とはとても思えない巡り合わせだったが、とにかく自分から渦中に飛び込んでしまったことになる。そして、3月 Kさんがリーダーであるプロジェクトに移動の内示を受けていろいろな意味で心はざわめいた。
私の移動とほぼ同時期、国内の S社が USのベンチャー S社の設計したデジタルカメラを開発するというニュースが報じられ、大阪まで Kさんと再三足を運び、当初 「別のブランドで開発するから 御社には供給出来ない」と断られたものの、Kさんの熱意が通じたのか 1年後に別機種として 高画質なデジタルカメラの OEM供給の合意を S社から取り付けた。但し、先方は得意な電気回路システムだけの開発で、レンズや筐体は自分たちで生産して供給するという条件付きで。1995年 9月末日のことだった。
その社内展開を Kさんから言い渡され、同時に何機種も経験のあるフィルムカメラですら企画スタート~生産開始は 18ヶ月が標準というのに、誰も全く経験のないデジタルカメラだというのに 1年後の翌年 9月末生産開始と決められてしまった。しかも当時の部隊は 4名、それではどうしようもない。元 ビデオカメラを研究していた研究開発部隊を割り振られたが、全く商品化の経験のない人たちの集まりで、どう説得しても「1年で生産開始なんて無謀、2年だって無理」と取り付く島すら無い。しかも今まで四角い箱のようなボディしか設計したことのない設計者に、カメラらしい3次元曲面の外装を設計しろと言ってもチンプンカンプン状態だった。しかし兎にも角にも設計者を動かさないとスタートは出来ないので、異を唱える開発のトップの人事異動や組織改編など強引な手段で、何とか社内の形が付いたのは既に 1995年も年の暮れ。残す日程は 9ヶ月しかなく S社の方では日程通りに電子システムの開発が進んでいるのに、社内ではまだメカ部品の設計もスタートしない。
そんな中、年も押し迫って Kさんの縁故のパーティー会場を貸しきってクリスマスパーティーが開かれた。カラオケで盛り上がっている中、私一人が 帰りの電車の都合で一足早く会場を退出した。すると入り口まで Kさんが一人で送って出てきてくれて「苦労をかけるが、よろしく頼む」の一言を口にした。その瞬間、「あぁ、一番言われたくない言葉を、よりによって一番言われたくない人の口から聞いてしまった」。後にも先にも Kさんに見送ってもらった記憶はこの時の他にはない。
それまでの私は、正直に言えば 開発部隊がゴネているのを理由に、何とか 1年では無理という言い訳を正当化しようという気持ちが心の何処かに引っかかっていたと思う。自分から「1年で可能になる<かも知れない>」提案をしてリスクを背負うことは避けたいという気持ちが強かった。
しかし、この殺し文句は見事私の性格まで見透かしたように退路を断ってしまった。一人帰る電車の中、ドア口に立ったままガラスに映る自分の顔だけをじっと見つめながら「大変なことになった」と酔が覚めてしまった。そしてその時に「もうとことんやるしか無い。人事に手を付け、組織をここまで動かしておいて失敗すれば私の社内での位置はなくなるだろうけれど、毒皿だ。徹底的にやるしか無い。」と決意した。
そしてその時にもう一つ、心の底で本当に恐れていること「万が一 私がどうしても引き下がれない一線で Kさんと意見がぶつかったらどうしよう? その時は多分 一顧だにされないだろうけれど、それでもサラリーマンとしては最大の武器<辞表>を示し、それも考慮されなければ本当に辞めるしか無い」と観念した(そして昨日書いたように、幸いにも辞表は不発に終わったものの、やはり最初で最後の Kさんへの辞表は杞憂通り全く意に介されなかったのだった)。 その時の私はまさに前門の虎、後門の狼の心境だったが、狼が「よろしく頼む」の一言だったとは、その後何度考えても、あの「お前は開発では使い物にならん」の一言の時からすでに仕込まれていたような気がしてならなかった。
ともかくすぐに新しい年が明けて、私は そこから 9ヶ月で生産開始する日程と組織の案を作ってトップに提出し、了解されて本格的にプロジェクトがスタートした。
結局、9ヶ月を可能にしたのは、製造事業としては禁じ手だが、開発と品質保証の全権を私一人の下に集約するというもの。行政と司法を一人で牛耳るような非常事態宣言下の組織のようなものだった。失敗すればどっちにしても私が全責任を持たなければならない事は明白で、今までの開発の仕方の問題点を引きずって開発と品質の責任を分散した所で会議体で合意する日程が無駄になるだけという開き直りが功を奏した。
結果はというと、狙いに寸分も違わず、試作の評価結果が出たところから即問題点は私の一存で設計にフィードバックをかけて対策を進め、結果は次の試作で確認するという超特急日程が実現し、社内の随所から上がっていた「無謀」呼ばわりを尻目に、無事 9月の後半には生産に移行し 10月には発売開始された。
因みに、この時プロジェクトとして私が開発・品質責任を負ったのはデジタルカメラ本体だけでなく、そのデータをPCに取り込むためのユーティリティソフトと、写真データを伝送するための電装アダプター、写真データを直接プリントするための専用画像プリンタというシステム全てだった。勿論 各デバイスごとに担当リーダーが配置され日々の問題解決は権限移譲して彼らに任されていたが、カメラ本体のリーダーは旧知で阿吽の間柄でなんでもズケズケと言ってくるカメラの生産立ちあげ経験もある T氏だったので問題が無い限り手が抜けたが、その他のデバイスのリーダーは本格的な製品化はほとんど経験のない人たちで、日々の判断ですら直接手を下さないと進まない状況だった。
そうした中、問題解決のための相手会社の事業部トップとの待ったなしの交渉や、社内の役員レベルの人からの「親切な」アドバイスへの対応なども毎日のように勃発する中で、今でもあの時は何故こんなに複雑なシステムの初めての開発を「無謀な」日程通りに進められたのか、もしかしたらあの「よろしく頼む」という一言で催眠術にでもかかって夢を見させられていたのではないだろうかと、自分でも不思議でならない。
今日の写真は、ノアザミの花。雑草は早めに刈られてしまうこの辺りで見ることは珍しいが、草丈が数cmと低いことが幸いしたのか、一輪だけ咲いているのを見つけた。栽培種よりも雑草を見ると心が和むのは、生き方のなせるワザ?
2013/06/25