e日記風 独り言

英国のEU離脱やトランプ米新大統領など、世界は今までの経験則では予想不可能な変化を見せ始めた。今年はそのトランプ新大統領が最大国家米国の実際の政治を執り行う最初の年。吉と出るか凶と出るか? 株価だけでなく心配や期待が乱高下しそうな年の幕開けだ。
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-1947- 使えない:その5
何時もの如くちょっと話題が行きつ戻りつするが、暫く前に書いた「使えない」商品・サービスの続き。
年末になって、例年のごとく年賀状をプリンターでプリントしているが、当然それなりの量のインクを使うので、私としては珍しく前もってインクカートリッジを準備しようと、近くの大型家電店で若干迷ったものの互換インクカートリッジのうち 3,500円ほどの最安価格の 6色セットを購入した。当家では結構インクを消費するので、今までも純正ではなく互換インクを使ってきて、キヤノンのインクジェット機では百均の詰め替えインクはじめ各種の互換インクを使ってきたものの、今まではさしたる不具合もなかったのでそのことでは迷わなかった。
それが今日になって、マゼンタと続けてシアンがインク切れになったので購入しておいた互換インクカートリッジに交換した。交換する前にシールを剥がすとインクの供給口が純正や今までのカートリッジとは若干異なって、小さめなのが気になったが(写真の赤い矢印の先がそのカートリッジ、黄色い矢印の先は純正のカートリッジの供給口)そのままプリントを続けた。しかしはがき数枚をプリントしたところで、色味がスジ状に変わってきたことに気づいて焦った。
ノズルのクリーニングやテストパターンを印刷すると、印刷開始時は問題ないものの、どうもマゼンタを大量に使う色がある程度の量(面積)かたまって続くとインクカセットからのインクの供給が間に合わずに、インクの流路の抵抗が大きなインクノズルの真ん中あたりのノズルへの供給が切れてしまうが、一旦同一色の大量消費が終わるとまた復活するような感じだ。単位時間あたりのインクの供給量が足りていない感じだ(上の写真はテストパターンのマゼンタだけをスキャンしたもので一番濃い帯の右端の方の真ん中辺りが切れているのが分かる)。カートリッジ単体の問題かと思ってカートリッジのインク供給口や空気口を見ても特に詰まっているようには見えない。何度かカートリッジを外してセットし直したりクリーニングを繰り返してみたりしたが、テストパターンを印刷すると同じようなまだら模様になってどうも改善しない。
1時間近く格闘したがはがきも無駄には出来ないので最終的には業を煮やして、もう一度同じ家電店に出かけて今度は純正のカートリッジを購入してきて交換したが、やはり一発で直ってしまった。どうもこのブランドのカートリッジはリサイクルカートリッジではなくて独自に製造したカートリッジ筐体を使っているようだが、インク供給口のプリンタ側との結合部に品質的に問題のあるカートリッジのようだ。多分その部分の特許回避の必要性でもあるんだろう。
慌ててネットの口コミをみると結構な不良の書き込みがあるようだ。勿論純正だって不良はあるだろうけど、流通量の少ない互換インクでこれだけの不良書き込みがあるのはやはり無視できない。もう二度とこのブランドは買わないようにしないと。

今日の写真も暫く前の撮影。ナナカマドの実だと思うがやはり真っ赤な実が綺麗だった。
2017/12/05
 


-1946- 心象風景
(ちょっと小説っぽい書き出しになってしまうが)人には、一度見たら一生忘れることが出来ず、その後の人生の岐路でしばしば思い出して決断を左右するような原風景があるように思う。今回神奈川に帰ってきて毎年今の時期に会う高校時代の親友と昔話をしていて思い出したので書いておく。
私にも半年ほど前に書いた池井戸潤の小説のような非常にドラマチックな決断の中で、自分でも何があの時の私をあそこまで頑なに突き動かしていたのか? と思うことがある。そしてそれは「他の誰の真似でもなく自分は自分らしく生きたい」と言う思いであり、そう思う時に必ず思い出すかつて見た一つの風景がある。
それは 10代の終わり頃、高校を卒業して東京に出て間もなくした頃に見た風景だった。時は更に遡るが、私の生家は信州の南端の町並みを見下ろす小高い川岸段丘を登りきった上に建っていた。そこの庭から今の飯田市の町並みを見下ろすと何百軒かの屋並が一望出来た。特に灯りが灯る夕方から夜にかけて私はその景色を眺めるのが好きだった。眺めながら考えたのは、あの一つひとつの灯りの下にはどんな家族が暮らしていて、それぞれにどんな人生が営まれているのだろうか、そんな事を考えながら眺めていた。
高校を卒業しその田舎の家を出て上京して間もなくした頃、関東北部に嫁いだ姉の家に一人で初めて遊びに行った時のことだった。上野駅で乗り換えた東北線が荒川の鉄橋を越す前だっただろうか。電車は盛り土の高いところを走るので車窓には見渡す限り続く屋並が広がっていた。山国で育った私は地平線という言葉は知っていても実際に見たことはなかったが、それはあたかも「地平」の代わりに「屋並」が広がっているようだった。そんな景色に驚いて生家で見た景色と比べつつ、何万と言うあの家一軒一軒に人々が暮らしているんだ、と思った。一望しただけの中におそらく何十万人と言う人がいる。その人達は一人ひとりは性格も考え方も違っているのにそれが何十万人と集まってしまうと、その中の一人の違いなんて溶けて消えていってしまうのでは?と思わせる風景だった。そんな景色に強い違和感を感じつつ、漠然とながらこれからは私もその中の一人になって行くんだ、と思ったが頭の中ではそう分かっていても、しかし心は自分が何十万分の一になることを明確に拒否もしていた。車窓から見えるどこまでも続く屋並の風景を眺めながら、隣の人と同じ自分ではなく何としても自分は他の誰でもない自分のままでいなければと思ったのだ。
それが後の入社面接で「レールの上を走るのではなく、荒野の真ん中にレールを敷くような仕事がしたい」と言わせたのであり、幸いにも希望通り開発に配属されてからは、他の人に出来る仕事をすることで競争するのではなく、常に自分にしか出来ない仕事を見つけて自分らしく仕事をしたい、と考えるようになった元だった。そういう視点から仕事の対象を見ていくことで「こうすれば成功するに違いない」と思えるようになり、それを実行するためにはどうすればいいかに知恵を絞り、反対されても安易には引き下がらない決意が生まれたのだと考えている。

写真は暫く前の撮影になるが、ウメモドキの実だと思う。まだ緑の葉に真っ赤な実が綺麗だった。
2017/12/04
 
-1945- ヤフオクでスタッドレスタイヤ
今年から信州に車を移動させたが心配は雪道。今までは年一度走るかどうかだった雪道だから降られても十数年前に購入したゴムチェーンで凌いできたが、今冬からはさすがにその度にチェーンを付けてはいられないとスタッドレスタイヤを購入することにした。しかし本体の車の方はもう8年以上乗っているし、遠出もしなくなったし次に買うなら軽自動車と思っているので、今更新品のスタッドレスはもったいない。ちなみに 195/65R15の新品ホイール付きのネットでの最低価格は韓国製でも 6万円程度する。
そこでヤフオクやらいくつかのオークションサイトを眺めてみた。車を買い替えた際にタイヤサイズが異なってスタッドレスが余ってしまうという人が多いらしく、結構な数のホイール付き中古スタッドレスタイヤが出品されている。しかしよく見ると殆どがタイヤの製造年が古いものが多い。生かじりの知識ではスタッドレスタイヤの命とも言うべき雪道や凍結路でのブレーキ性能の大部分はタイヤゴムの柔らかさによっているので、古くなればゴムの硬化でそれだけスタッドレスの性能は低下してしまうと思われ、ネットで検索すると保管状態にもよるが、特に凍結路では5年経過したタイヤではあまりブレーキ性能は期待できなくなるらしいと分かった。
私の場合、上記のような事情だから3年持てばいいとも思うがそれでも年々性能が低下することを考えるとなるべく新しい年式のタイヤが欲しい。そこで去年製造されたタイヤに絞って、私の車に合うサイズ・ホイールのタイヤを探すとかなり数は限られることが分かった。しかも個人の出品だと比較的低価格で落とせる可能性があるが、殆どは業者がマージンを乗せて出品しているらしく初期価格が高めに設定されている。2週間ほどオークションサイトを眺めつつ相場価格を探り、入札上限を3万円と決めて該当のタイヤが出品されるのを待った。オークションの経験は殆どないが、よい出品を見つけるコツはなるべく仕様や検索ワードで絞って、終了までの時間を昇順・降順に切り替えて表示させ終了間際で比較的安価な品に応札するか、出品直後で即決価格の低い品を見つけるのがいいらしい。殆どの人が自分の上限価格を決めたら即入札するようだが、それだとその時点では最高価格にランクされても終了時間までにさらに高額の入札者が現れる可能性が高いので落札は難しそうだ。そんなことを考えながら更に1週間ほど眺めていたら、希望通りのタイヤが即決価格 2万7千500円という出品があるのを見つけ出品後2時間ほどで応札して落札した。
出品者は中古部品販売業者だったものの、なんと松本市の業者だったので直に受け取りに行くことで送料が0に出来た。
落札後、数日して直接受け取りに行ってきたが、ホイールの傷やサビも少なくタイヤはヨコハマの2016年製でほとんど摩耗していない良いタイヤだった。

今日の写真は、この辺り(神奈川)ではまだイチョウも紅葉真っ盛り。青空をバックに金色に輝いて綺麗だった。
2017/12/02
 
-1944- 工夫
使えないサービス・商品を吊し上げてきたが、中には洗濯ハンガーのように使えないものも工夫で何とか使えるようになる場合もある。
写真は使った事がないからと頂いたアンティーク風のスタンド(電球部分が見えるように傘は外してある)。元々がアンティーク風なんだが、未使用で入っていた個装箱などからは多分 30年以上前の製品だと思われ、右の写真には無いが傘は彩色されたガラス製、台は木製、その他の構造部品はいぶした感じの金属で最近のプラスチック主体の製品とは明らかに異なって趣がある。こうしたものに目のない家人はとても喜んだが、しかし電球を差し込んで点灯させてみたら数分で電球のフィラメントが切れてしまった。電球は窒素ガスが新品時と同様に封入されていれば時間が経ってもフィラメントが劣化することはないだろうけど、多分口金部分の封止が甘く窒素が抜けて酸素が僅か混じったのではないだろうか?
期待していたのに使えなくなったと残念がる家人が「絶対に直して」と言うので、近くの大型家電店で探すと同じ口金サイズの電球があり早速買ってきたが、写真の下のように新しい電球は古いものに較べて 7mm程度だが長さが長くて(手前の若干黒く見える方が古い電球)、交換しようとしたら上部の傘の支えが邪魔になって新しい電球は口金部分がソケット部に入らないことが分かった。違う電球を探さないとダメか!と諦めかけたが、店頭の記憶ではそんなに全長の短い電球は売っていなかったような? と思いつつ傘の支え部分を見ていてふと思いついた。六角形になっている支えの金属は結構頑丈ながらもいくらか柔軟性があって、思い切り力を加えれば少しは変形させられそうだ。六角形だから横方向をひしゃげさせることが出来れば縦方向に伸びるから長い電球も入りそうだ。そこで両側から思い切り掌で押してみた。結果、期待通りいくらか変形したようで新しい電球がソケットに挿入できた(写真は交換後の新しい電球を装填したところ)。交換後に再び形状を戻して・・・とも思ったが、数mm程度の変形では傘が若干持ち上がるだけで被せてしまえば分からないからとそのまま使うことにした。

今日の写真は十月桜。10日ほど前に神奈川に戻ったので朝の散歩を再開した。酷寒の信州とは違い朝の冷気が気持ちいい。
2017/12/01
 
-1943- 使えない:その4
またまた間が空いてしまったが、テーマは続いて、使えない商品の続き。
私の家(マンションの方)のリビングの照明は入居した時に選択を失敗して、大きな白熱のボール球が使われている。白熱球でもボール球タイプは結構コスト高なんだが最近の省エネの流れで 同じようなボール球型の LED電球は更にバカ高く1,500円以上で 有名メーカー製だと3,000円弱もする。しかしリビングの照明で4個使いで一番長く点灯させるため家の中の照明用としては電力消費も一番多い。
そこで十年ほど前からフィラメントが切れた順番に蛍光灯タイプのボール型電球に替えてあった。蛍光灯タイプは LEDと較べてコストは 1/4程度だが、消費電力は倍程度とある意味コスパはいい。唯一の問題は点灯時の数十秒間は若干暗い(最近は最初からほぼ同じ明るさのものもあるが)という点。私は「たかが数十秒間の辛抱だ」と気にしなかったが家族に不評だし、もはやそう言う時代だと観念して仕方なく3年ほど前に LED電球に交換した。しかしそこはやはり投資は抑えたいのでどこかのホームセンターで安売りしていた 「ELPA」というブランド(朝日電器という会社の商品らしいが)の電球を買ってきて交換した。
それが購入後 1年しないうちに一個がチカチカしだしたのでその電球だけ元の蛍光灯タイプに戻しておいた。ところが最近もう一つの電球が消えてしまった。どうやら発光部の LEDと言うよりは点灯回路部品の方の問題らしい。寿命10年以上と言われる LED電球が 1日 4~5時間の使用で2年ほどで 不良率 50%とは呆れたものだ。

今日の写真は久しぶりに神奈川に戻って散歩中に見かけた皇帝ダリア。この時期に咲く花は少なく花も綺麗なせいだろう、最近この辺りでもよく見かけるようになった。そのせいでこの花は去年まで撮影した株ではなく近くの幼稚園の敷地に咲いていたもの。見かける度に冬だなぁ~と感じさせてくれる花だ。
2017/11/30
 
-1942- 使えない:その3
暫く間が空いてしまったが、使えないと感じたものの続き。
下の写真は、娘が「使えないからあげる」と言って新居に持ってきた物干しハンガー。
ステンレスの針金で出来ていて錆びないし、デザイン的には申し分ない。若干高くても私以上に好奇心が強い娘はつい買ってしまったようだ。
しかし実際に洗濯物を挟んで吊るしてみると、ピンチのグリップ力が弱くてちょっと風が吹いただけで洗濯物は外れて飛んで行ってしまう。デザインにこだわるあまり、同一太さのステンレス線でピンチ全体を一筆書きのように作ってあるのでバネ力が弱いし、挟む部分に至っては針金一本で摘まむだけなので布との摩擦もかなり弱い。
「よくこんないい加減な商品を量産販売したな!」と思ってしまうが、だからと言って私の性格としては、こんな高価なもの(実際の価格は知らないが)「使えないから捨てよう」とは思わない。何とかして使ってやろうと思っていくつか試してみた。
まずは挟む力が増すようにピンチの先端部分から少し支点よりをペンチで挟んで少し曲げてみた。しかしこれは若干良くなったような気はするが風で洗濯物が外れないほどには改善しない。考えてみればコイルバネになっている部分は5ターンになっているから、仮にその角度が180°増したところで10%しか増えない。次に試したのは、タオルなどを干す場合は端を一回細く折って厚くして挟むという方法。タオルは元々縁が別織になっていてそこの部分が厚ければ摩擦が増えて外れにくいようなタオルもあるが、普通のタオルでもこの方法は結構有効だ。濡れると重くなってすぐに外れるバスタオルでも結構風に耐えている。但し一重の薄物などは折り返しても厚みがほとんど増えないから全ての洗濯物に有効ではないし、折り返した部分は厳密に言えば乾きにくいという問題もある。
現時点ではここまでで、目下はタオル干し専用のハンガーとして使っているが、いずれピンチの先端部分にゴム樹脂でも塗って摩擦を増やす方法などを試してみたい。

今日の写真は二日ほど前の朝の初霜の写真。この辺りはいよいよ冬だ。
2017/11/06
 

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-1941- 使えない:その2
暫く間が空いたが 私が「使えない」と感じたサービス・商品について。
去年セゾン自動車保険の更新をしたときに(記憶は曖昧だが)事故時の通報システムの申し込みがあったんだと思う。暫くして大きな押しボタンスイッチが付いた丸い円盤のようなものが送られてきた。説明を読むとスマホに指定のアプリをインストールしてこのボタンのような部品を車に張り付けてスマホに Blutoothでリンクさせておけば、事故時にこのボタンを押せばスマホのアプリが起動してセゾンのセンターに繋がり、事故車のGPSによる位置が送信されて近くのサービス拠点から担当者が来てくれるらしい。事故時に焦って自動車保険の連絡先電話を探せない人、事故車の正確な位置を説明できない人などには便利なサービスかも知れない。
と言うところまでは理解したんだが、アプリをインストールしてから2日ほどして気づくとスマホの電池の消費が半端なく早い。時間にして今までの半分以下になっている。その間、スマホに対して加えた変更はこのアプリのインストールだけなので、迷わずアンインストールした。結果、やはり電池の持ちは戻った。こうしたスマホが外部と連携するサービスは、アプリが「いつ来るかわからない信号を常に待ち受ける」必要があるため、常駐して電池を消費する。メールの着信のように 10分/1回 程度起き上がってチェックすればいい用途ならともかく、逆にボタン側の小型電池の寿命もあるだろうから おそらく数秒に一度通信していると思われ、それが電池消費の原因だろうと推測できる。少なくとも私に関しては免許取得以来、幸いにして自動車保険のお世話になったことはない。それがこんなにスマホの電池を食ったのではたまらない。更に、この車を運転するのは私だけではなくたまには家人も運転するから、家人のスマホにもインストールしないとならない(と思う)。
結局、私は写真のボタンは張り付けたままだがスマホのアプリは最初のテストで起動しただけで、その後はアンインストールしたままだ。

今日の写真は、ナナカマドの実(だと思う)。葉が紅葉する前に実の方が真っ赤になって、2度楽しめる。
2017/10/16
 
-1940- 使えない!:その1
最近、いくつか「使えない」サービスや商品に出会った。現役時代、いかに使いやすい商品を作るかに頭を悩ませてきた身からすると「どうしてこんな仕様/サービスを作ったんだろう?」と不思議になる。
その手始めとして取り上げるのが「バス近接情報サービス」
しばらく前、まだクソ暑い時期に自宅(神奈川)近くのバス停からバスに乗ろうとして、こんなに暑いのにいつ来るかわからないバスを炎天下で待っていたら熱中症になるかも?、そういえば最近都内のみならず神奈川でもバスの近接情報サービスが出来たような? と思って探すとあった。早速該当のバス停を入力して表示させようとしたが、残念ながらうまく表示できなかった。その時は1時間に一本のバスの予定時間になるので、諦めて余裕をもって家を出た。暫くしてもう一度確かめると、今度はそのページ自体が表示されなくなっていた。「使えない」と言うクレームでもあったんだろうか?
さらに、今日になって家人が「高速バスに乗って来る」と言うのに雨女の面目躍如か?かなりの雨が降っており迎えに行かないといけない状況。しかも家人のスマホはどうやら充電が心もとなく、近くに来たと言う連絡が来るかどうか疑わしい。そこで高速バスには近接情報サービスがあったはず、と思って調べると「Bus-Vision ハイウェイバスロケーションシステム」というページがあると分かった。さっそく降車予定のバス停や出発時間などを指定して「検索」ボタンを押すも「該当する接近情報はありません」と表示されるだけ。もしかして指定したバス停からある程度の範囲にいないと表示されないのかな?と思って出発時間を別のバス便の時間に変えて試すも、一向に表示されない。通常ならあるはずの「ヘルプ」ボタンもないので使い方自体が分からない。
恐らくどこかのバス会社で始めたサービスに倣って「ウチも」と誰かが言い出して、Webシステムの会社に発注したんだろうが、仕様もろくに出さないでチェックの仕方も分からず、システム設計会社も通り一辺倒のチェックをしただけでいい加減な出来栄えのまま納品したものが公開されているんだろう。
こんないい加減なシステムに惑わされて、時間を浪費させられる身にもなって欲しい!(まぁ面白半分で操作している感は否めないが)

今日の写真は、2週間ほど前の撮影だが娘の家の庭に出てきた蛇。日向ぼっこしているのか動く気配がないので庭に出て写真を撮ろうと近づくとさすがに鷹揚に逃げ出したので、頭の方は映らなかった。シマヘビだろうか?
2017/10/06
 
-1939- しばらくぶり
個人的にガタガタしていたので、暫くTVニュースも新聞も見ずに世相から遠ざかった仙人?のような状態だった。それが今朝、しばらくぶりに TVを付けると「民進党が国民ファースト・・・じゃなかった、希望の党に合流」とか「民進党解体」とか、なんじゃそれ???的な状況だということが分かった。俄か結党の希望の党への風が吹けばアンチ自公の受け皿だった民進党は壊滅的状況に追い込まれることは火を見るよりも明らかで、そうなる前に党を挙げてなりふり構わず小池新党にすり寄る構図だ。しかしこれは前回選挙で民進党に投票した選良に対してはあまりにもバカにした振る舞いで、前原新代表の責任はもとより、安倍首相の年内解散の仕掛けが予想される中でその新代表にバトンタッチしてこの状況を作り出した蓮舫元代表の責任も重大だ。
もう、現国会議員とりわけ野党はなりふり構わず「どうすれば当選できるか」しか頭になく、都政を放り出して国政選挙対策に奔走する小池都知事にすり寄る構図になってしまったようだ。これぞまさしく安倍首相の「思うツボ」だが、だからと言って最大野党になるだろう烏合の衆の希望の党なんかに絶対に投票はしたくない。希望の党は野党と言いつつ、なだれ込む新参公認期待候補に改憲論議では改憲に賛成を強要するはずで、その意味では新党は隠れ与党・・・「羊の皮をかぶった狼」だ。

今日の写真は、もう脱穀も終わってこの風景もなくなってしまったが、稲架(はざ)掛けされた稲の束。この辺りは、規模的にコンバインなどの大型農機具が使われるほどの広さの田んぼではなく、昔懐かしい風景に出会えた。天日干しのお米は美味しいんだろうなぁ・・・
2017/10/02
 
-1938- 不正ログイン
今朝の情報番組で楽天のポイントが不正に利用されて、利用した中国人の犯人が逮捕されたと報じていた。
と言うニュースを他人事のように聞いていたが、午後になって PCからメールにアクセスすると「〔Yahoo! Japan〕ログインアラート」と言う件名のメールが受信され、今朝の 4時過ぎに台湾(中華人民共和国)からアクセスがあったという内容だった。驚いてアクセス履歴を確認すると確かに身に覚えのないアクセスが一件ある。なにより朝の4時にアクセスするはずがない。明らかに ID(メールアドレス)とログインパスワードが漏れたと思われる。幸いにして Yahooはメールもメインではなく、Web店舗でのカード番号なども登録していないので実質被害は無さそうだが、そうは言っても ポイントなどは若干あったりするし気味が悪いので、慌ててパスワードを変更しておいた。
考えてみれば20年以上前に登録したきり、その後は一度もパスワードを変更した記憶がない。これを機会に他のサイトのログインパスワードも変えておいた方がいいかな? ・・・と言いつつ面倒なので多分そのままになりそう。

今日の写真はオシロイバナ・・・だったかな? 名前に自信はない。
2017/09/20
 
-1937- スマホ契約変更
しばらく前からスマホの調子が若干悪い気がしていた。かかってきた電話の着信音が鳴らなかったり、電池の消耗が激しい時があったりと、必ずしも回線のせいともスマホ端末のせいとも言えないが、岡谷に来た当初はなかった現象で2年以上使い続けた本体の問題かもしれないと思い始めた。
加えて、当初通話はほとんどしないから通話定額ではなく通話料従量制だったが、根がケチな私は短い電話でも「金がかかる」と思った途端思いとどまることも多い。世間では通話定額のサービスが低価格化してきたので、そっちに乗り換えてもいいかな?と思えてきた。
そこで1週間ほど前に、従来のキャリアー IIJに MNP(番号移行)予約番号を請求しておいた。先週末に連休を利用して次女夫婦が里帰りする車に便乗して一旦神奈川に帰り、台風接近の中 近くの家電店の携帯コーナーに出かけた。そこで市場からは姿を消しつつある Huaway P9-Lite と言う端末が 「100円」となっていたので話を聞いてみた。
結果はこの手のサービスのキャッチコピーと、13か月後以降の実質支払額の差で、必ずしも端末込みの契約が有利なわけではないと分かったが、今まで使用中の本体の前記のような状況もあるので思い切って契約に踏み切った。
MNP予約番号を取ってあったが、結局手続きに2時間ほどかかって回線の切り替えが完了。端末が Huaway P9-Lite に、キャリアーが Y mobile で 通話10分未満なら定額に変わった。
それにしても、このまま25か月以上契約すると月額がアップするらしいが、そこがどうも解せない。24か月を過ぎると途中解約も解約金がかかるとか。総務省も額面だけでなく公正取引のために こうした不自然でユーザーに分かりづらい契約方法を監視して制限するような必要があると思うんだが。

今日の写真は名前を知らないが土手に咲いていた紫の花。
2017/09/20
 

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-1936- Start Menu8/ iObit
自分ではもう覚えていなかったが、Note PC(Win8.1)に iObit という会社の Start Menu8 という Windows7ライクなスタートボタンを実現するツールをインストールしてあった。それがなぜか昨日になってスタートボタンを押して PCをシャットダウンしようとしたら(詳細は忘れたが)「iobit が何たら」というウインドウが表示されて、シャットダウン出来なくなってしまった。「はい」と「キャンセル」どちらのボタンを押してもウインドウがすぐにポップアップしてきてしまってシャットダウンに行かない。
そこで「iobit」で検索すると、別のツールながら iobit uninstaller という不要なアプリのアンインストーラーの評判の記事が目についた。どうやら StartMenu8 のインストール時に標準だと一緒にインストールされてしまうらしい。それが、それ自身をアンインストールしようとすると、なかなかアンインストールできなかったりゴミファイルを残したりとかなり評判が悪いようだ。
慌ててコントロールパネルから StartMenu8のアンインストールを行ってみたら、何のことはない こっちは簡単にアンインストールできた。しかし、生の Windows8では「タイル」が主体でスタートメニューからのアプリの起動が出来ないしシャットダウンもやりづらい。今日になって 同種のツールで Classic shell というツールをインストールしてみた。今のところ問題なく使えている。(上の図はclassic shellでスタートボタンを押したところ)

今日の写真はヤマボウシの実。岡谷の国道20号バイパスの街路樹としてヤマボウシが植わっているが、最近たわわに実がついている。たしかヤマボウシの実はおいしい果実酒になると思うが、誰も採る人はいないみたいだ。
2017/09/15
 
-1935- スマホとPC間のデータ転送
スマホを使い始めてもまだ PCがメインの情報機器で手放せない私は、しばしば PCで入力した文字列をスマホに転送したり、スマホの画像ファイルを PCに転送したいと思う。文字列としては Webページの URLや ログイン ID/パスワードとか PCのキーボードで入力した長文などだが、そんなこんなで いくつかのアプリを使ってみたが、最近気に入っているのが Pushbulletというアプリ。Windows/iOS/Android に対応しているので便利だ。
スマホと PCなど情報を転送する機器それぞれにアプリをインストールしてから、それぞれの機器で Gmail/Facebook などの IDでログインすると同じIDでログインした機器がデバイス一覧にリストされてデータを転送可能になる。
転送するにはアプリを立ち上げたらまず転送する機器を選択して(①-②)おいて、その下の入力欄に文字列をコピペなどして(③)から Pushボタンを押す(④)と、即時転送されて着信した機器で「ピロロ~ン」と着信音がして画面にアプリのポップアップ表示がされる。そのポップアップをクリックするとその機器でアプリが立ち上がって、その画面で転送された文字列を選択/コピーすることが出来る(通常設定では起動時に常駐する)。画像ファイルを転送する場合は文字入力欄の左側のクリップのアイコン部分(⑤)をタップするとファイル選択画面が立ち上がるので、そこで画像ファイルを選択してから転送ボタンを押す(PCからのファイル転送は Explorerからアプリに対してファイルをドロップする)。スマホからのファイル転送は直接機器間をいきなり転送されるのではなく、アプリ画面に表示された画像をクリックすると ブラウザが立ち上がって、Pushbulletのページに飛んで同じ画像が表示されるので、PCなら右クリックして「対象をファイルに保存」から保存ができる(Pushbullet にファイルを一時預ける形になるので、機密性のファイルは暗号化した方がいい)。
スマホで撮影した写真や上図のようなスマホのスクリーンキャプチャ画像を PCに送信して利用する場合に便利だ。

今日の写真はクルミの実。このあたりでは最近民家の敷地や空き地のクルミの木の葉っぱの間にぶら下がっているのを見かける。
2017/09/14
 
-1934- Web での Exif表示
最近、この私の e日記の写真が表示環境によってはおかしな表示になっていた。
例えば iPhoneでの表示では縦長画像が横に回転して表示されたり、Windows上の Chromeでは通常の縮小表示は問題ないのに、その画像部分をクリックして拡大画像だけを表示させると横長に回転してしまうとか。
気づいてはいたが時間がなくてそのままにしてあったが、4~5個の画像が同じような表示になってしまったので仕方なく検討に腰を上げた。
結果は、Exif情報(画像ファイルに埋め込まれた撮影時の条件などの情報)が悪さしていた。問題の画像はすべてスマホのカメラで縦位置で撮影したものでそれを PCのアプリで適当にトリミングしてから所定のサイズにリサイズしてアップしたものだったが、スマホの縦位置で撮影したという Exif情報がそのまま残っていたようだ。処理した PCアプリの保存オプションの「Exif情報を保存」というチェックがいつの間にか ONになってしまっていたようで、再度同じアプリで開いておいてそのオプションを外して再保存したら問題は解決した。Webを表示させるブラウザも PCやスマホなどいろいろな種類があってそのブラウザごとに Exif情報の扱いが異なっているらしい。「余計なお節介」とも思ったが、当節 わざわざPCで処理してからアップする方が少数派と言うことなんだろうか?

今日の写真はこの近くの民家の塀から覗いていた白いハギの花。
2017/09/13
 
-1933- Google map:その5
暫く中断した Google map の続き。
Google map を使ってみて驚いたのは、遠くに出かけていて帰路を検索し設定したとき。帰路と言っても自宅ではなく、買い物をして帰りたいと思って目的地にスーパーの名前を入力した時、「目的地のお店は到着後 1時間以内に閉店する可能性があります」と音声案内があった。で、実際にほぼ予測時間通りに走って到着してみたら、閉店 30分前だった。この時は食品を購入するだけだったので 30分あれば余裕で買い物ができたが、商品選びに時間がかかるような場合は別の店を選ぶとか、閉店後に到着するような場合は事前に検討できるので、なかなか面白い機能だと感心した。最近はあまり遅い時間に買い物に出かけることもないし多くの店は9時頃まで営業しているので、閉店時間なんて気にしたことがなかったけれど、確かに遠隔地から慣れない店に買い物に行こうとした場合や、定休日のある店などでは結構役立つかもしれない。
・・・と書いてきて、その仕組みの裏側に思いを馳せた。多分 Googleは情報掲載店からある程度の収入を得ているんだろう。そう思って検索すると、こんなページがヒットっした。少なくとも登録だけでは無料となっている。但しポイントは「4.利用規約に同意の上・・・・」という部分。恐らくは 1日のアクセスが少なければ無料で、多くなったら費用請求が来る仕組みだと思われる。ちょっと古いが 2,500回/1日まで無料、1,000回超えるごとに $0.5 という情報があった。まぁ中小の店舗ならまず心配ないか?

今日の写真はカワラナデシコだろうか?最近、このあたりの土手で目にする。どこかの花畑から種が飛んで来たんだろうか?
2017/09/12
 
-1932- 北朝鮮:その2
先日の「北朝鮮」の続きの傍目の勝手なコメント。
阿部首相がロシアのプーチン大統領と会談して、国連における北朝鮮への制裁決議に協力要請を行ったらしいが、結果は分かっていた通り。
あまりメディアでも取り上げられていないが、私が思い出したのは 1962年前後の「キューバ危機」の話。ちょうど読み進めているケン・フォレットの「永遠の始まり」にもその舞台裏が出てくるが、米国は当時アイゼンハワーからケネディ大統領に政権が移った時代で、フロリダから目と鼻の先のキューバにカストロの革命政権が誕生し、親米派の地主などが迫害されていることに危機感を抱き、米国がカストロ打倒を画策する中でピッグス湾事件などを起こし、その結果逆にカストロの危機感に火が付き、ソ連に急接近して軍事的援助を要請した。そしてソ連の当時のフルシチョフ首相が極秘裏にキューバに中距離核ミサイルを運び込んでミサイル基地の建設を始めた。
U-2の偵察飛行でこれを察知した CIA/米軍は即刻のキューバ侵攻を主張しケネディ大統領もぎりぎりの判断を迫られ、キューバの海上封鎖に踏み切りソ連からの軍事物資輸送を米軍の海上検閲により阻止しようとし、米国-ソ連による一触即発の危機が生まれた。
結果は、フルシチョフが突きつけた交換条件、米国がトルコに配備したミサイルの撤去と交換にキューバからのミサイル撤去をケネディも同意したことで危機が回避されたが、ここで鮮明になったのはソ連のしたたかさ。それはソ連が崩壊しロシアになった今も健在だ。
これは私なりの解釈では、メディアなどの公開された情報操作によって選ばれ任期も限られた自由主義国のトップに比べ、当時も今も表面上はともかく実際には熾烈な裏の権力闘争によって政権を奪い取る形の共産主義/社会主義国のトップは、駆け引きにおいては非常にタフで「○○学園」問題などで右往左往している軟弱なトップなどは軽くあしらわれてしまうという現実。去年暮れに故郷に招いて盛大に歓待したにもかかわらず、北方領土問題は実質的にはほとんど何も進展せずに終わったことも思い出してしまった。
プーチン大統領は、北朝鮮問題に対してはどんな判断をしようと失うものはなく、逆に最大限に自国の利益を考えているはずで、自由主義国の大義「平和」に安易には乗らず、北朝鮮の「暴挙」というカードも使えるだけ使おうという魂胆だろう。

今日の写真は、もう盛りを過ぎてしまったが土手に咲いているニラの花。葉っぱは間違えてスイセンを食べてしまう人がいるらしいが、花は随分違う。
2017/09/09
 

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-1931- 我が意
二日ほど前、パソコンを操作しながらテレビのモーニングショーの声だけを聴いていたら、男子高校生が女友達とその子の新しい男友達を刃物で刺して殺傷したという事件に対して教育学者がコメントしていたが、そのコメントに思わず「エッ」と思ってしまった。
要は最近の子供は、子供同士で遊ぶ機会が少なくテレビを見たりゲームをする機会が多いが、テレビやゲームは気に入らなければチャンネルを変えたり電源を切れば面白くない状況は変えられ、ゲームなら状況はリセットできる。それに対して実際の人間関係は自分の思うようにいかなくても、状況を変えるには多大な努力が必要になる。だから友達と一緒に遊んだ経験が少なくゲームやテレビと付き合う時間が多い子供は現実の人間関係で思うようにいかなくなると、その状況を消したりリセットしたいと思って簡単に相手に対する殺意を抱く。
というようなコメントで、このページのどこかに私も書いた記憶のある通りの見解だった。慌てて探すとここにあった。しかし 私の方は 13年以上前にそのことを指摘していたことになる。だからと言ってどうということはないが、「してやったり」の感は拭えない(小人だなぁ!)。

今日の写真はイチイの実だろうか? おいしそうな?実だ。
2017/09/06
 
-1930- Li電池事故
ドライブレコーダーに内蔵されている Li電池が発火し、車が焼けるという火災が発生し、発売元が通産省に届け出て回収しているという。夜の NHKニュースでその発火の実験の様子の動画が流れていた。私が前にこのページで自分の経験に基づいて「火炎放射器」と書いた映像そのものだ(ニュース映像は見つからなかったが Youtubeに別の発火映像がアップされていた)。更に別の番組では、ネットで購入した中国製の格安充電器が同じように発熱する事故が起きている、その充電器の中は砂が詰まっている、と報じていた。
どうも スマホの普及 それに伴う Li電池の普及で、気軽に製品に Li電池が搭載され、十分な安全性試験を行わなまま安価な電池や周辺回路を製品に採用していると思われる。通産省や関係団体や業界はどんどんあの映像を流して製品設計者や関係者に危険性を周知させないと そのうちに航空機や船、あるいは高層の建物など、被害が甚大になる場所で事故が起きる可能性が現実的になってきた。

今日の写真はチョット遅きに失した感があるが、ヒマワリ。この辺りではかなり「秋」の気配が漂い始めてしまったが、出先では成育不十分なのか、背丈の低いヒマワリが綺麗な花を咲かせていた。
2017/09/05
 
-1929- 北朝鮮
ちょっと Googleの話題は中断して、傍目(オカメ)の勝手な独り言。
いよいよ水爆が実現したとか、ICBMがグアムに届くようになったとか言う話題にマスメディアの報道が集中している。
もちろん重大な問題だが、隣国韓国や日本のことを考えたら既に攻撃出来ない状況になっているし、現時点では米国国民が拉致・攻撃されているわけでもないのに、少なくとも米軍の多大な犠牲の可能性がある武力行使は出来ないだろうと高をくくった金正恩の独壇場の図になっている。金正恩の高笑いとトランプ大統領の歯ぎしりが聞こえてきそうな状況だ。
しかし傍目がちょっと斜めから見てみると違った手が見えてくる。
それはアメリカなど周りの国は「とにかく北朝鮮には核兵器もICBMも持たせたくない」という一点張りだが、ここにきて緊張が高まることで重要人物の相次ぐ暗殺などで一時期危ぶまれた北朝鮮の国内体制が盤石なものとなったように思える。これは「内政が混乱したら国外に敵を作れば国内は一致する」という政治のセオリーのようだ。それを裏付けるように、皮肉なことだがトランプ大統領のロシア・ゲート疑惑も、某国首相周辺の「忖度」疑惑も追及の手が遠のいたような気がする。少なくとも心の中で某国首相は「しめしめ、北も各種実験をどんどんやってくれ」と思っているのではないかと、下衆の勘繰り。
傍目としては、むしろ積極的に核を認める・認めないはともかく、話し合いの席に着いて緊張を解きつつ、経済制裁だけは継続したほうがいいと思うんだが。そうすれば、金委員長の心配は再び国内体制に戻り、あの不安定な独裁体制に必ずほころびが生じるのでは? あるいは若干の経済援助を再開しそれをテコに北朝鮮国内へ世界の情報をもっと積極的に入れたり、多くの北朝鮮側閣僚との会合の回数を増やしそれによって閣僚間の軋轢や疑心暗鬼を煽るなど方策を考えた方がいいのでは? そうした内側からの崩壊を積極的に仕掛ける手を真剣に考えた方が被害も少なく問題解決の可能性が高いと思われるんだが。
三国志に登場する蜀の軍師 諸葛亮孔明ならきっとそうしたに違いないと傍目の勝手な想像。

今日の写真は、多分葉っぱの虫こぶ? 葉っぱの変形だと思うが、葉っぱの一部が膨らんで色も変わっている。一本の木に数枚こうした変形があるようだ。
2017/09/04
 
-1928- Google map:その4
Google mapの続き。
ナビ機能の経路検索では私にとっては細すぎる道の案内が多いので、何とかもう少しまともな道を指示できないのかあれこれ試してみた。パソコンの Google map上で変更したルートはスマホに送信したら現在地と目的地は転送されたが変更したルート情報は送信されなかったと書いた。
第二の方法は、最初からスマホの Google mapアプリ上で目的地を設定しておいて一旦経路を表示させてからメニューボタンを押すか、目的地の下の「経由地の追加」を行う方法。但し経由地の追加では「経由地」と言いつつ最初に一旦入力した目的地までの途中のポイントを指定できるわけではなく、目的地の次のポイントを設定する形になるので順次ポイントを指定しながら最終目的地まで入力することになるようだ。最初に目的地を入力してしまった場合は、その下の「経由地の追加」をタップして指定する経由地の数だけ同じ目的地を入力しておいてから、順番に上の方から目的地をタップして「経由地の編集」を表示させ、信号名などを文字入力するか、入力されている目的地の文字を全部削除すると表示される「地図上で選択する」を選んで経由地を地図上の真ん中に表示させておいて「OK」ボタンを押して決定していく。
そしてこの方法で経由地を指定すると途中の「経路の追加」で指定したポイントに到着すると一旦そこで「お疲れ様でした」と案内が中断してしまう。その場合画面下に表示される「続行」というボタンを押せば次のポイントへのナビが始まるのだが、どうせなら一定距離を移動したらそのまま続行してほしいのと、途中で停滞情報などに気づいて途中のポイントを変更したりパスすることにした場合でもいつまでもパスしたいポイントを案内し続けるのでパスする方法がないと思われる。「次のポイントに進む」のようなボタンがあるとありがたいんだが。

今日の写真は水田の中に咲いていた花。オモダカだと思う。子供の頃聞いた話では結構厄介な雑草だったと思うが、花は可憐だ。
2017/09/03
 
-1927- Google map:その3
Googleマップアプリについての続き。
Googleの特徴として、スマホだけでなく PCやタブレットとの連携がやり易いという点がある。スマホはモバイル用途では便利な道具だが、データを加工することを考えると PCと比べればかなり劣る。そこでスマホで使うデータを PCで予め加工しておいて スマホに転送することができる仕組みがある。
検索したら、例えば 「Google mapではスマホアプリ上では細かなルート変更が出来ないが、PC上ではできる」とあった。そこで試してみた。確かに PC上では経路検索したルートを拡大しておいて、ルートの一部を近くの道路上にドラッグするとルートが変わって到着時間も再計算される。そこで画面左側のメニューから「ルートをモバイル端末に送信」をクリックするとスマホにデータが送られて、それをクリックするとマップアプリが立ち上がってルートが表示された。・・・・しかし現在地と目的地は合っているもののルートは変更前のルートのまま??? 何度やっても同じ。いくつかのページを調べたがどれもほぼ同じ方法を紹介しているが、どうなっているんだろう。

今日の写真は出先の近くの田んぼの畔に咲いていた。ガガイモの花?
2017/09/01
 

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-1926- Google map:その2
昨日の話題の続きで。
昨日は「Google mapが無料」と書いたが、最初の日に利用した経験から 早速百均に行って二つだけ周辺グッズを購入してきた。
最初の日は準備もなく利用したが、Google map では当然ナビの間中 画面が点灯するし車の移動に合わせて地図データが Webから逐一更新されるので性能のわりに電池の容量が小さい私のスマホでは途中で電池切れになる可能性も高い。更にシフトレバーの手前のボトルホルダーにスマホを平置きしていたので声は聞こえるが、運転中には地図情報を見ることが出来なかった。そこでスマホの充電が可能なカーシガレットUSBアダプタと、スマホのホルダー(実際には適当なホルダーはなかったので、机の上にスマホを立てるスタンドだったが)を計 216円で買ってきた。USBケーブルは家で充電に使っているものを持ち出して使った。スマホスタンドはそのままでは振動する車内では使えないし、充電ケーブルを下につないだ状態ではスマホをスタンドに立てることも出来ない。そこで金属ワイヤー製スタンドの一部に太めの針金を巻き付けて、エアコン吹き出し口のルーパーの間に引っ掛けるようにした。実際にはこれでも車の振動でスマホが落下してしまうので、写真にはないが間に合わせ手段として輪ゴムでスタンドに止めてある。
こうすることで画面は若干小さくてスタンドの格好も良くはないが、最新地図データとリアルタイムの停滞情報を利用した実用的なカーナビになった。但し、スマホがこの位置に来ると運転席にはエアコンの風が届きづらくなるから、真夏の晴天時の使用はちょっときつい。次はビルトインカーナビの前に取り付けられるようなホルダーを考えよう。

今日の写真はコマツヨイグサ。自宅周辺でも小さな花は見たが、ここの草丈は 20Cm以上と立派だった。
2017/08/30
 
-1925- Google map
最近、岡谷の娘の家から安曇野方向に車で出掛ける用事があり、20号線から 19号線に進むという主要道路しか知らない私は、必然的にカーナビのご厄介になるんだが、一昔前の私の車のカーナビは停滞情報が反映されなくなってしまったのか、19号から20号への停滞名所を迂回してはくれない。そこで一旦停滞車線から車線変更して暫く走った後でコンビニ駐車場を見つけてスマホを取り出し、今まで試す機会のなかった Google map アプリを利用してみた。
まずは目的地だけを入力してルートを検索しておいて指示に従って走ってみた。しかし指示されたルートはどう考えてもかなりマニアックな道路だった。片側一車線の中央分離線の引かれていない対向車とすれ違うのを一瞬ためらうような道路や、住宅街の中の狭いところの手前では一旦停車して対向車をやり過ごさないとならない細い道路、舗装が車幅ギリギリで夏草が車体をこするような一方通行道路などを優先的に指示してくれる。
どうやら全ての通行可能な道路のうち僅かでも早いルートを探して教えてくれるらしい。走りながら考えた結論としては、Googleが手作業で地図情報を加工しているとは考えづらい。さらにサーバー側は同じアプリユーザーの位置情報は逐一分かるので、それを時々刻々吸い上げて停滞のない=1秒でも早く通過するアプリユーザのルートを採用していると思われる。その証として信号機が遠くに見えたので「あの信号機のある交差点を左折か?」と思っていると、いきなりわずか手前で「左折です。その先すぐ右折です。」と言われてビックリして見ると背丈の伸びた夏草に隠れたような細い迂回路を指示されていることも何回かあった。そうした結果、google側にこうした枝葉道路まで逐一の制限速度データは反映されてないと思われるので、畢竟運転マナーはもちろん制限速度を無視したような車のデータが反映されやすそうだ。指示通りに走っていて川沿いの一方通行の狭い堤防道路に入った際、主要道路の橋との交差を避けてアップダウンを繰り返し橋からの道路の合流地点の見通しも悪いから"実質制限速度"で走っていたのに、後ろから来たスポーツセダンにこれ見よがしにつつかれてしまい、追い越し可能車線に戻った途端件の車は爆音をとどろかせて追い越していった。きっと私の車がいなくて且つあのスポーツセダンが Google利用車だったら、予測通過時間はあの車のデータが反映されたのではないだろうか?
しかしそうした道の多くは地元の人の生活道路で建物の脇や門の前スレスレを走ることも多いから、たとえ1分早くなったとしても私としてはそこまでの抜け道はあまり走りたくはない。と思ってもスマホのアプリではなかなか細かなルート変更が難しい。指示を無視して抜け道に曲がらなければ、すぐに再検索で新しいルートを指示してくれるが、それだと長蛇の停滞に突っ込む可能性もあるし初めての知らない道では果たして曲がるべきか直進すべきかも迷ってしまう。
とは言え、10万円前後する高価なカーナビに対して、ほぼ無料で利用できる Google がありがたいことは事実で、おそらく今後のサービス展開として PCアプリのような分岐のある程度手前で「交差点手前で左折すると○分、交差点を左折するとプラス○分です。」のような案内ができるようになるのではないだろうか?

今日の写真は、もうかなり時期を失した感があるが月見草。綺麗な花だが、雑草として土手に生えると、茎は結構硬くなって刈るのに苦労する。
2017/08/29
 
-1924- スマホが故障?
数日前のこと。久しぶりに神奈川に戻っていると娘から家(イエ)電に「スマホの電源が入ってないよ?」と電話があって、慌ててスマホを確かめると電源オフにはなっていないものの、タスクバーには 4Gの電波アイコンが表示されていない???
初期設定時のうろ覚えの記憶を元に設定画面で確認すると「SIM カード」という中の「SIM 有効化」の項目が「SIM が空です」となっていて、通信事業者のところが空のまま。(私のスマホはダブルSIM なので番号1/2共に/右図は正常時の画面)
とりわけ何か設定をいじった記憶もないので「SIM カードの接触不良?」と思ってカードトレーを引き抜いてカードを取り出して、金メッキの接触面を布でゴシゴシ擦って再装填、あるいは電源ボタンの長押しで電源ON/OFFしてみた。
しかし、状態は同じ。その日は疲れていたので「明日どうしようもなかったら 近くのノジマか BIGカメラにでも出かけて、本体故障ならこの際格安携帯会社を交替して、安価な本体をもらうしかないかな?」と思ってそのまま寝てしまった。とりあえず WiFiは繋がっているので娘たちからの連絡は LINEで受けられるし、まぁいいかと。
次の日、起きて再確認するも状況は変わらないので、今度はトレーのカード2の方に装填してみる。4Gの電波マークは点灯しないものの、図の下の方の「SIMカード」という項目の 「SIMカード番号;2」という方に電話番号が表示されていることに気づいた。スマホでは自分の電話番号情報は SIMカードに記録されていて、スマホ本体には記録されていないはずで、と言うことは SIMカードは認識されている? 一縷の望みが生まれたので、さらにつつき回してみることに。
結果、上図の「SIM有効化」のところをタップすると通信事業者の選択画面が表示された。「そう言えば最初の設定でここに Docomoを設定したなぁ」と思い出して、確認するとどのキャリアーにもチェックが入っていない。「ハハァン」と思って Docomoのところをタップして選択して前の画面に戻ると、上の図のように SIMカード番号1のところが「SIMが空です」から「SIMは有効です」となって、通信事業者が表示されステータスバーに 4Gの電波マークが点灯した。
で、確認でイエ電に電話してみるとちゃんとリングが鳴った。目出度く何とか自力解決!

今日の写真は出先で見つけたヒバの実? 黄色の花が咲いているのかと近づくと、どうやら実のようだった。
2017/08/14
 
-1923- Vaio のリカバリー
久しぶりに神奈川に戻った。戻って時間があったのでコチラでなくては出来ない作業をしてみた。
それは NotePC(Vaio SVT13128CJS)を Windows10に去年アップグレードしたんだが、それまでの Windows8.1からのアップグレードではなくて、アップグレード権を使用してクリーンインストールしたために、幾つかのユーティリティや専用ソフトが入っておらず、タッチパッドの設定など細かなところで問題がある。そこでそれらをインストールするインストーラがあるのでは?と思って Web上で探し回ったが、アップデートはあるもののインストーラは見つけられなかった。Sonyのページでも 「Windows10へのアップグレードは最新のアップデートパッチを当ててからアップグレードするように」との注意書きがあり、どうやらプリインストールアプリのインストーラは配布していないようだ。
そこで、Windows10へのアップグレードが開始されて半年ほどした時に既存の Win8.1に対してアップグレードした時のイメージを復元しようとした。イメージを保存した HDDは此方に置いてあるし、Note PCがリカバリー中に使えないので、何かあった場合デスクトップ機で作業をせざるを得ないため、こうした作業は此方でやったほうがいい、と言う判断。
しかし、実際に HDDイメージを復元してみると、目的の イメージでは OS not found となってしまう。多分、HDD丸ごとではなくてパーティションだけのバックアップしかなくて、その後 (忘れてしまったが)前後のパーティションを変更したために、OSのパーティション番号がズレてしまったんだろう。
その場合、リカバリーツールを USBなどから起動して修正する必要があるが、リカバリー用の USBメモリは流用してしまったのでリカバリーツールが使えない。そこでパーティションを一度元の状態に戻して、その上で USBメモリのリカバリーツールを作ってから、もう一度パーティションを書き戻して・・・と、途方も無いようなパーティションイメージの書き換え作業を繰り返した。・・・・・ところが、USBメモリからリカバリー用の O/Sを起動してリカバリー中、最後の最後で ちょっと目を離している空きにどうやらフルリカバリー(工場出荷状態への書き戻し)に進んでしまったようで、 O/Sは購入時の Windows8に !!! 半日ほどの作業の結果が全てパーになってしまった。
どっと疲れた!

今日の写真は季節外れながら娘の家の庭に自然に生えてきた一色のスミレ。昔は三色スミレが珍しかったが最近はそちらは普通に目にするが、昔ながらのこのスミレはとんとお目にかかれない。
2017/08/03
 
-1922- e日記:修正
今更ながら、この「e日記」を投稿・編集する perlプログラムにせっせと変更を加えている。
続けて読んでいただいている方にはあまり関係ないかも知れないが、従来の複数記事の羅列では検索エンジンから検索ワードで飛んできた人には極めて不親切だと認識したから。最初のうちは過去の記事は月ごとにまとめたページにして出力するようにしていたが、最近はそれも面倒になって3ヶ月~半年くらいにしかまとめなくなってしまった。その割に新規の記事投稿はせっせとマメにやっていたために、1ページの記事数が数十件という超膨大なページになってしまっていた。分割しても良いんだが、それも面倒で一旦過去のページを出力してしまうとそのまま放置に近かった。
これでは、検索ワードがページの下の方にあった場合、折角検索エンジンから飛んできても、その該当記事を見つけるのは至難の業。余程マイナーな検索語でもない限りこのページが検索エンジンの上位にリストされることはないと思うが、それだけに折角飛んできてもらっても、意図した単語/記事内容を見つけられないのでは本当に申し訳ない。
更に、私の性格として一旦出力したページをエッチラオッチラ再分割するなんて地道なことは出来ない。例え何十倍も時間がかかっても、プログラムで自動で一発で出来る方法を取りたいと思ってしまう。
世の中の大勢のブログページも1件/1ページというスタイルが殆どだし。
と言う事で、このページを出力している perlブログラムに手を加えて、過去の記事も全部 1件/1ページで再出力することにした。
というわけで、ページ数にすると突然 1,900ページもの(記事内容は古いが)新しいページが出現することになった。(#1#1921)
但し、たまに見に来てくれる人の事も考慮して、当分の間従来形式のページも出力すると思うが、なにせズボラなので ・・・・どうなることやら?

今日の写真は娘の家の庭に植えた小玉スイカの苗が育って実がついた。スイカは雄花と雌花があって人工授粉しないと着果が難しいらしいが、この実は虫か風で自然に受粉したらしい。あまり期待していなかったが、ビギナーにしては上出来。
2017/07/30
 


-1921- 久々に道具について
もう使い古した道具なんだが、同じものが売っていないし気に入っていて壊れても捨てられない道具。これは現役時代、確か朝会社に行く途中の道端でフィットネスクラブの開店告知で配っていたもの。もらってみて、便利そうなので毎朝1個ずつもらって家族にも上げたが、残っているのはこれ一本だけ。出張の多かった当時、折りたたんで使えて、ブラシの歯が適度に柔らかくて気持ちいい。しかしフレームの片方が折れてしまって手を後ろから添えないとブラッシングできないが、同じものを探しても見つけられずに、今回のように出かけた時は仕方なくそのまま使っている。結構需要があると思うんだが、どうして売っていないんだろう?

今日の写真は娘の家の畑に実ったミニトマト。脇芽も欠かずにそのまま育てたが、毎日数個ずつ採れて毎日の食卓を飾っている。
2017/07/26
 
-1920- HTML/css の話題
久しぶりに神奈川に戻ってきて久しぶりにこのページを更新している。
但し内容は、狭い話で己のこぼれ落ちる記憶の補完の意味で。
岡谷にいる間は娘達の手伝いをしながら、空き時間にチョコチョコとこの e日記を表示させる perlプログラムをいじっているが、帰りのバスで試しに出力した別ページをスマホで確認すると!!! 表示がおかしい。どうも帰る直前に直した スタイルシートのどこかが間違っているらしい。早速帰ってきて今朝から見直してみた。まずコチラに残っていた数ヶ月前の スタイルシートをアップロードして上書きしてみた。Chromeブラウザで確認すると・・・・直っていない??? しかしこれは Chromeのキャッシュが残っているためだから「ハードウェア再読み込み」で解決した。PC上ではブラウザの巾を狭めて確認するとスマホ並の巾では直っている。
で、スマホでチェックをすると・・・・直っていない。スマホの Chromeでスタイルシートを再読込する方法はキャッシュの消去しか方法が思いつかない。で Web検索すると どうやら スタイルシートの URL記述に クエリー文字列を追加すればいいらしい。具体的には <link rel="stylesheet" href="css/xyz.css?20170716"> のように「?」に続けて適当な文字列を追加して別 cssファイルとして認識させるらしい。これで無事古い スタイルシートでは問題解決。
そこで新しいスタイルシートに問題があることが確定したので、新しい方をチェック。多分 中括弧のどこかの記述が間違って、{ に対応する } が抜けているんだろうと予想したものの、しかしスタイルシートは中括弧 {} が多く、ちょっと見ではどこが間違っているのか分かりづらい。 落ち着いて考えると、テキストエディタの TeraPadの検索メニュー中の「対応した括弧」で Shiftキーを押しながら検索すると範囲が選択できるので見つけやすい。
結果は予想通り。修正途中で } の代わりに ] が使われていた。キー入力で Shiftキーを押し忘れたんだろうけど、老眼では気づかなかった。フォントによっても見分けづらいからテキストエディタのフォント設定を見直した方がいいかも。

今日の写真は娘の家の庭に植えた茄子の木にいっぱい実がつき始めた。雑草もろくに取っていないが、健気に実をつけている。
2017/07/16
 
-1919- 都議会議員選挙 & 藤井四段
自民逆風が報じられていたが、結果は午後10時の時点で都民ファースト 30議席、自民 2議席だとか。再び民意の振り子は大きく触れすぎたようだ。とりあえず安倍首相が密かに狙う、年内改憲草案、前後して衆議院解散、議席増または維持で「信任」と言う御旗を掲げてあわよくば改憲へと突っ走ろうという目論見は遠のいたと言えるのか? それにしても自民以上の他党の惨敗は、次の総選挙では振り子の振り戻しでどう言う模様を描くんだろう?  2大政党拮抗待望論者としてはため息しか出ない。
一方、選挙の投開票と同時進行のように進んでいた注目の竜王戦トーナメントは 29連勝でストップしたらしい。それにしても中学生の労働時間として夜中の 9時過ぎまでというのはどうなんだろう? プロの将棋だから経済活動を伴っており、もはやゲームとはいえないはずだ。・・・とまた天邪鬼の疑問。

今日の写真はキュウリの花。梅雨らしくなってきて、盛んに咲き始めた。
2017/07/02
 
-1918- 半年が終わって
弁護士でもある大臣が憲法にも抵触する発言を「誤解」と言う、あたかも他人のせいにするような、欺瞞としか言いようのない言い逃れをしている。そんないい加減な弁護士に依頼するクライアントがいるのだろうか? と言う疑問は置いといて、梅雨というのに「梅雨」というのは誤解だ、と言わんばかりに岡谷ではほとんど雨も降らない間にもう半年が終わってしまった。長野県は各地とも平年の6月の 3割~5割程度の降水量らしい。それが今日は 7月を待っていたように本格的な雨だった。
今日の写真は娘の家の庭に咲いているデルフィニウム。梅雨の鬱陶しさを忘れさせてくれるような鮮やかな紫。
2017/07/01
 
-1917- e日記の表示エラー
このe日記始め私のサイトのページの右側のリストのリンクが正常に表示、ジャンプ出来ない状態が4月頃から続いていたようだ。気づいたのは数日前。
もう基本のテンプレートになるフォーマットを作成してから1年ほど経つので、「おや!?」と思ったものの、すぐには原因らしきものに思い至らない。
腰を落ち着けて考えないと分からないと思い、昨日からソースファイルを眺めたり一部を書き換えて確認したりした。
結局原因はリスト表示をドロップダウンさせるために利用している下記の Javascriptのライブラリが、元々のサイトから無くなってしまったことだと分かった。

https://cdn.rawgit.com/ungki/bootstrap.dropdown/3.3.5/dropdown.min.js
慌てて Web上を探すと
http://cdn.rawgit.com/twbs/bootstrap/v3.3.5/js/dropdown.js

がヒットした。
慌ててダウンロードして自分のサイトに設置して確認したら元に戻った。
まぁ、Javascriptなどでは他人のサイトの公開ライセンスのライブラリを勝手に参照することが多いが、考えてみれば先方の都合でいつ変えられるかも分からない。懲りて他のライブラリも自分のサイトにコピーを設置した。

今日の写真は娘の家の畑に勝手に生えてきたタチアオイ。多分盛り土のために運び込んだ土の中に種か根っこが混じっていたんだろう。夏の色だ。
2017/06/29
 

l̊COʔ́@TOMTOP

-1916- 天邪鬼のタラレバ思考
ずっと天邪鬼というテーマで、若干ヘソ曲がりな私の経験を書き綴ってきたが、今日は同じ天邪鬼ながら、私自身の問題ではなくて最新ニュースをちょっと違った視点から。
14歳の天才中学生プロ棋士がプロデビュー以来負け無しの連勝記録を更新して歴代タイ記録になったとか。 私は小学生の頃近所の友だちと遊んだことがあるくらいで将棋のことはほとんど分からないが、ここまで来ると見ていても相手が誰であってもよほど体調でも崩さない限り負けないのでは? などと思ってしまう。並み居る大人の棋士を負かせての戦績だからそれはそれで素晴らしいことだしその能力は驚異的だと思う。
そう思う一方で、天邪鬼としてはいつものことながら、若干の異論を挟みたくなってしまう。「もしそんな能力を9x9のマス目の世界ではなく、もっと別の世界で使っていけばどうなるんだろう? 例えば医学とか物理学などの分野に進んでいけば人類にとってすごい成果が生まれるるかも知れないのに・・・・。将棋ってどんな名人でも棋譜と戦績が残るだけだし、既にAI(コンピュータ)の方が強いんだよな? AIはどんどん進化するし、そこで類まれな能力の人間がシャカリキになるのってもったいない?ような・・・・。14歳の一番多感な時期に人生を一本に絞らないで、もっと間口を広げてクリエイティブな事を探して欲しい・・・・」と。 その筋の人の目に付いたらお叱りを受けるであろうからあくまで独り言だし、人生には「タラレバ」は無いので無意味な繰言ではあるが。

今日の写真はヘビイチゴの実。子供の頃よく見たが、あの頃は「毒」だと聞かされた記憶があるが、Wikiでは無毒だと書かれていた。
2017/06/21
 
-1915- 天邪鬼:番外編
話は少し外れるが、前回書いた Sm元会長、というより元社長に不信感を持つようになった経緯から負の遺産の辺りについて、私の立場からの見解に触れておく。(なおここに記したことは極めて主観的な私の認識に基いており、かつ古いので記憶違い、理解の間違いも多いと思います。指摘されれば確認して正します。)
私が入社した年、社長は前任の K社長が就任したが更に 10年ほどして Sm社長に交代した。この時私はまだ社長交代劇の裏側についてはよく知らなかったが、後から知ったところでは当時技術畑出身の F専務との間で熾烈な社長の椅子争奪戦があったらしい。
それを私が察したのは、上記の社長交代の2~3年後だったと思う。当時入社後十数年ほどした私にほぼ順番で海外の展示会への出張の話が出た。その時の出張はアメリカのラスベガスのカメラショーで、私にとっては右も左も分からない初めての海外旅行だった。その旅行先で、ラスベガスとアメリカの拠点であるニューヨークを回ったが、どちらの都市でも同じ時期に出張していた Sm社長やその時のフィルムカメラの事業部長の Sz常務が同席して米国法人主催の夕食会があった。米国法人はその暫く前に Sm社長が米国での責任者時代にそれまでの米国総代理店から販売権を取得して苦労して立ち上げた現地販売会社で、そうした意識が強いのかその夕食会で Sm社長は殊更「我が家意識」を出して打ち解けた会話が交わされた。反面、私はそれまで社長や役員が同席した会議など経験がなかったので分からなかったが、後から考えると Sz常務は終始とても居心地の悪い表情だったような気がする。そしてその出張から帰ってから暫くして、私が勤務していた八王子の事業場に社長が来た際、私は総務から役員応接室に呼び出された。部屋には Sm社長が一人でいてコーヒーを飲みながら雑談をしただけだったと思うが、その中ではその年のベースアップやボーナス支給に対する社員の反応を知りたい様子が伺えた。結局 Sm社長は「私は社員のことを大事にしたい。」そう言い残して帰っていった。
そしてその年の後半になると、技術職場の人間にとって大変な施策が発表された。社内で「A計画」と呼ばれた技術職場の移転計画だった。
当時の技術職場の中心は八王子の工業団地の一角にあった石川事業場で、ここにフィルムカメラや顕微鏡、内視鏡と言った主要な製品群の技術・開発要員の大部分が集合していた。しかし会社規模の拡大に伴いこの事業場が手狭になってきたため、会社としてはそれぞれの事業の主管工場に技術・開発要員を分散させて問題を解消すると共に、開発と製造の距離を縮め相互情報交換をし易くして仕事の品質向上を図るという計画を発表したのだった。その頃の各事業部の主管工場は、カメラと顕微鏡が長野県、内視鏡が福島県にあったので、大多数の技術系社員にとってその計画は転勤、転居を意味するもので、八王子の事業場は計画の発表とともに上へ下への大騒ぎとなった。それは当時の転職情報誌が一晩で八王子の書店の店頭からなくなったと言われるほどの騒ぎだった。
私の元にも私より若い技術者が何人か血相を変えて飛んで来て「この計画が実行されるなら私は会社を辞めます」と訴えた。
しかしその計画は労働組合も問題視し撤回要求が出され、発表から半年を経ずして何も実行されることなく取り下げられて、大騒ぎは嘘のように治まった。(私の立場ではもう確かめようがないが、この時の労働組合の委員長が その後の Kk社長だったような?)そして、その終息の後ほどなくして Sm社長がフィルムカメラ事業部の開発の半期に一度の会議に異例の出席をして「あの計画は私の本意ではなく、仕方なく発表したものだった。皆さんの意向を踏まえ技術職場は八王子市とも相談し近くの用地を買収して新しい拠点を作りそこに移転をする。」と明らかにした。その会議には 事業部長の Sz常務も出席していたが、私たちは「じゃぁ、あの騒ぎは何だったんだ? カメラ事業部の開発に社長が個別に説明に来るのは何故なんだ?」と割り切れないものを感じつつも、とりあえず転居はしなくて済むという話に胸を撫で下ろした。しかしとりわけ私はその直前個人的に社長から「社員が大切」と言う言葉を聞いていたので、その社長が本気で反対したならあの計画は表面化しなかっただろうに、とより一層この推移に疑問を抱いた。そしてこの騒ぎは計画を提案したとされる F専務やその系列の Sz常務が騒ぎの責任を取り退任することで幕が引かれ、 Sm社長の体制は一層盤石なものとなったが、そこに至って初めて「そうだったのか、会社のトップの間ではそうした駆け引きがあるのか。」と会社というものの内情が表面とは全く違うことがあり得るんだという現実を見た思いがした。
更にそれから数年後、バブル崩壊を引き金とした山一證券の事件などで大手の会社の財テク損失の問題が顕在化すると、一般社員の間でも「ウチはどれくらい損失があるんだろうか?」という心配の声が聞こえ始めた。と言うのも一時期 Sm社長は社員を前にした説示などで、本業の営業損を穴埋めする「財テクの利益」や外国債による資金調達の話を誇らしげに披瀝していたからで、世の流れからすればバブル時代の「財テクの利益」はその何倍もの「財テクの損失」となって跳ね返ってくるはずだった。しかしどうした訳か当時の業績報告では大きな財テク損の話は出ずに、いつしかバブル崩壊や財テクの話も過去のものとなって忘れ去られていったかに見えた。
時は流れて、Sm社長は会長、最高顧問となっても隠然と人事を左右し、社長は「デジタルカメラを1年で立ち上げろ」と檄を飛ばした Ks社長からその後デジタルカメラ担当役員になった Kk社長へとバトンタッチされていった。にも関わらずデジタルカメラの躍進で誕生した映像事業部の事業部長には予てから Sm顧問の意にそぐわなかった K部長が就任することを頑として認めず、代わりに自らが社外から招いた Kmフィルムカメラ事業部長を据えさせた。 Kk社長はデジタルカメラ事業の第一の功労者 K部長を事業部長にするようにかなり頑張ったようだが、何故か最後は Sm最高顧問の意向は無視できなかった。結果、デジタルカメラを一緒に苦労して立ち上げてきた K部長も私も T氏も立ち上げ中心メンバーはごっそり会社を去ることになった。最後に私が Kk社長に退職の挨拶に行った時、30分ほどの時間だったが辞表が受理された後でもあり私も敢えてその話題には触れなかったが、Kk社長の寂しそうな表情は今でも忘れられない。
それより少し前、当時は次期社長と目された財務担当役員の健康理由の辞任や、業績にも関わらず短すぎる Ks社長の任期など、傍から見ていても幾つかの不自然な出来事があったものの、損失問題が表面化することはなくそうした人事と絡めて考えることもなかった。それが 2011年になって突然スクープ雑誌の記事やイギリス人の社長誕生と直後の解任劇によって損失処理問題が明るみに出た。その時点になってやっと私にもそれまでの幾つもの疑問が一つに繋がって腑に落ちた。社長の椅子というアメは「巨額損失隠蔽」という毒と表裏一体で、どちらも飲むことを拒否するか、さもなければ一旦飲んでしまったらその他もろもろの軛からも辞任以外逃れる術はなかったんだろうと。
実は個人的に事件の年の年賀状で当時の Kk社長から「たまには遊びにおいでよ」と言う懐かしい文面を頂いたこともあり、長居した社長の椅子もそろそろ潮時と踏んだのかと2月のある日秘書室に電話して Kk社長との面談を申し込んだ。しかし Kk社長はその時丁度ヨーロッパに渡航中とのことで、後日帰国した辺りにもう一度電話することにした。それが帰国とほぼ同時にイギリス人社長への交代のニュースが流れたのでびっくりして「昔話をしている場合ではないだろう。会長に退いて時間が出来てからでいいだろう。」と電話は控えた。それが、みるみるうちに日本中を騒がせる事件へと発展しついに訪ねる機会を失してしまったが、何故あの年に限ってそんな文面をくれたのか? あの時もし訪ねていればどんな胸中が聞けたのか? おそらくは Sm元社長の負の遺産は自分の代で全て清算して、しがらみのない次期イギリス人社長を介することで連鎖の鎖を断って意中の次次期社長に託したかったのでは? と思うが、今となっては永遠に解けないだろう疑問が残ってしまった。

今日の写真はジャーマンアイリスだろうか? 道端の雑草地に艶やかに咲いていた。
2017/06/09
 
-1914- 「永遠の始まり」
娘の病院に付き合ったが、待ち時間があったので隣の本屋で立ち読みしていると、ケン・フォレットの文庫本の新作があった。表題の本だが 東西ドイツ統合の頃からの世界を描いているらしい。早速購入。
まだ「満州国演義」が途中だが、あまり読む時間もないのに長編すぎて若干飽きてきた。暫く浮気してこっちを先に読むことに。

写真は娘の家の畑に実をつけたカボチャ。品種は忘れたが、去年買ってきて食べたら美味しかった国産カボチャの種を取っておいたので、4月ころにスーパーの大きめの蓋付き食品パックの底に穴を開けて土を入れて、そこに種を蒔いた。期待していなかったが、狙い通り蓋が保温カバー兼霜よけとして機能したらしく、4本ほどの苗が育ったので5月に入って地面に植えなおしてみた。うち3本が無事にツルを伸ばしてそれぞれ1個ずつ実をつけた。最後の一個はツルも小さく実がつくのは遅かったので期待薄だが、この実は最初に出来た実で期待できそう。収穫時期を間違えないようにしなくては。
2017/06/07
 
-1913- 天邪鬼:その9
(どこまでが天邪鬼の話か不明瞭になりつつあるが、成り行き上続いてしまう。)
一方自社の商品化戦略が見事的中し、追いかける他社を尻目にそれからも 3号機 4号機と商品化されるデジタルカメラは軒並みトップシェアを獲得し、順調に売上が伸びて事業部は拡大の一途を辿り、ついには古巣のフィルムカメラ事業部の売上をも超えてその古巣の事業部と情報機器事業部の一部を統合して新しく映像事業部が発足した。私が古巣を飛び出す時の挨拶、大志だけで何の根拠もなく大言壮語した「皆が乗り移れる大きな船」は図らずも実現してしまった。
時をほぼ同じくして私に「一年でデジタルカメラを商品化しろ。」と指示したKs社長は会長に退き、それまでデジタルカメラを担当してきた役員の Kk常務が社長に就任した。しかしその流れからも、そして新規事業を短期に既存事業部並みの事業に育て上げた実績からも当然 K部長が映像事業部トップになると誰からも思われていたが、何故か事業部長には直前にフィルムカメラ事業部のトップに就任した Km事業部長が横滑りし、K部長は副事業部長としてデジタルカメラ事業を統括するという、どう見ても上手くは行きそうにない 2枚看板体制になった。新しい Km事業部長は元自動車用タイヤメーカーのアメリカ法人で辣腕のリストラを遂行したと言う人で、リストラを完遂した後フィルムカメラ事業の不振時に営業部長として当時の Sm会長が社外から迎え入れ、その後東南アジアのカメラ製造工場を立て直したりした人物だった。しかしそれは私がフィルムカメラ事業部の開発から飛び出した後の話で、私とは全く接点がなく人となりなどは直接にはあまり知らない人だった。だが人づてに聞く話からは、営業や製造という成績の数値化しやすい現場をスローガンを掲げて意識改革していくようなことは得意そうだが、民生品の企画・開発とかマーケティングのような技術や市場の動向分析や先読みということが重要な分野に関しては否定的な感触だった。当時の私の見立てでは「車が1台売れれば自動的に4つ売れるタイヤ商売しか分からない」人だった。タイヤ商売とは、極端な話が仮に革命的なタイヤを開発しても車が売れない限りタイヤだけで全体市場を倍には広げられないから、事業拡大の成長戦略はシェアを上げるか原価を下げるかだけしかない商売だ。それに対して民生品の中でも企画・開発先行の傾向が強いカメラビジネスと言うのは、自動露出やオートフォーカス機能と言った先進的な技術が開発される度に、あるいは一眼レフブームと言ったユーザー嗜好を焚き付ける度に市場規模を何倍にも拡大してきた市場で、成熟市場の製造や営業分野で実績を上げたからと言ってまさに創成期のデジタルカメラの旗振りに適しているとは思えなかった。・・・というのは若干後付気味の理由で、根本は<「スローガン」で十把一絡げに操られるのが根っから嫌い>と言う私の中の天邪鬼の問題と、加えてその Km事業部長を社外から引っ張ってきたと言う Sm会長(その時は顧問)に対しても、私はある事件をきっかけに人間性を疑うようになったので、坊主憎けりゃ・・・的な短絡評価かも知れないが。そしてこの Km事業部長誕生は実は Kk社長や Ks会長の意向ではなく、もうとうに引退したと思われていた 件の Sm会長、当時の Sm顧問の横槍だったことを私は退社直前に知ったんだが、この Sm顧問の別の負の遺産はその後会社全体の存亡の危機を招くことになる。(このあたりに関しては更に横道に逸れるので別の機会に書こうと思う。)
そんな組織の変化もあって私は仕事にそれまでのようには熱意が湧かず、その流れから自分はどこまでも大勢に流されることが嫌いな天邪鬼なんだという自己発見をしたこともあって、高画素化一辺倒に流れるデジタルカメラ市場のカメラの企画にも次第に興味が湧かなくなっていった。
それでも上辺の仕事はしなければならず、デジタルカメラの世界を広げると言う観点から、仕事はカメラメーカーならではの画像専用プリンタの開発などにシフトさせていったが、その頃は既に家庭用プリンタの世界はインクジェットの強豪が市場を分け合っており、もはや画像専用プリンタの入り込む隙間はなかった。
間もなくして、それまでデジタルカメラの記録用に使用していたメモリカードのスマートメディアと言う規格が古くなり、より小型化した新しいメモリカード規格を考えるか既存の SDカードに乗り換えるかと言う問題が顕在化してきた。
フィルムカメラの時代、カメラメーカーはカメラというハードを利益スレスレで販売し、一方フィルムメーカーはしっかりフィルムやプリントビジネスで利益を得るという市場構造だった。それを一番苦々しく思っていたのがカメラの販売の最前線で長いこと苦労してきた K部長で、デジタルカメラ事業を興したらメモリカードビジネスも手中に収めたいと言うのが悲願だった。それが実際には、フィルムがメモリカードに変わったもののメモリカードは半導体メーカーが製造して供給するので市場参入が容易で、パソコンの周辺機器ブランドが一斉に参入して時には売上高確保のために利益度外視で在庫を処分するブランドが多発し市場価格が急激に値崩れしやすく、全国の中小カメラ店まで卸さないとならないカメラメーカーは在庫量も多く値崩れで損害を被るため自社ブランドのカードは利益には繋がらず売りづらい状況が生じていた。
そこで、副事業部長に就任した K部長と私は新しいメモリカード規格を作ってメモリカードのビジネスを再構築することを考え始めた。丁度同じスマートメディアを採用したデジタルカメラを製造していた F社の担当者とはメモリカードの規格会議で顔見知りだった私は、フラッシュメモリの製造元の T社を巻き込んで 3社でスマートメディアの後継となる新しいメモリカードの規格化の検討を開始した。そこでの課題は電気的な仕様の検討よりも如何にしてメモリカードの販売をデジタルカメラメーカーが主導できるかということだった。懸念されるのは独禁法との兼ね合いで、そのため社内の法務部門の担当者にも参加してもらい独禁法の専門の弁護士の事務所に何度も通い、「デジタルカメラ専用メモリカードをデジタルカメラメーカーだけが独占販売する」ことの可能性を検討した。
しかしこうした動きは再び社内の猛反発を招いた。先行するメモリカード規格に対して、カメラメーカー2社だけが提唱するメモリカードなどを採用したらデジタルカメラ自体が市場で戦えないと言う主張がその中心だったが、開発でそれを主張している人間は「とにかく先行する SDカードを使いたい。SDカードの無線通信などの拡張機能の技術を取得したい。」と言う動機が明らかで、カメラビジネス全体でどう利益を確保するのか、と言う観点が欠如しているのは明白だった。私の考えでは、パソコンユーザーはメモリカードを各種の周辺機器間で使い回すので、どんなメモリカードが使われているのか?と言う仕様には敏感で、マイナーなメモリカードを採用した機器を敬遠することは分かっているが、デジタルカメラユーザーはそうした事よりもカメラ本来の機能・性能の方に関心が高く、パソコンで読み込むためのカードリーダーさえ入手できれば大きな問題ではないと考えた。しかし、今回もそういった説明は自社の開発部隊には聞き入れられなかった。しかし次期メモリカードを選択するための数回の社内会議を経て、K副事業部長の強力なプッシュもあってデジタルカメラビジネスをトータルで考えた場合、独自メモリカードのほうが利益が大きいという結論を導いて、開発は不承不承ながら独自メモリカードでのデジタルカメラ開発を承諾した。
この社内決定を経て、私はもう一人の技術担当者と一緒に F社、T社との共同開発に本格的に取り掛かった。しかしそれから数ヶ月後、カードやコネクタなどの詳細な設計が終わる頃、社内でクーデターのような思わぬ事態が起きた。
当時の私はこの仕事のために T社に置かれた事務局にほぼ毎日出向く生活で自社に戻ることは少なかった。しかし K副事業部長が米国出張中のある金曜日の午後、久しぶりに会社に戻って自分の机に向かっていると同僚の Y氏が話すのを躊躇いながらも「実は明日、開発トップが開発中のカメラの件で事業部長に直談判に来ます。私も同席するように言われています。」と教えてくれた。当時開発部隊のいる事業場にはほとんど顔を出したことがなかったが、新しいデジタルカメラの設計が新しいメモリカード対応をしていないことは薄々知っており、しかもその週は K副事業部長が海外出張していたので、私は直感で新しいデジタルカメラの設計を新しいメモリカード対応から SDカード対応に切り替える話だ、と察した。そこで翌土曜日、特に用事があったわけではないが職場に出社して待っていると開発トップ2人が現れた。土曜日でいないと思った私がいることに一瞬びっくりした様子だったが、何食わぬ顔で Y氏に声をかけて共に事業部長室に入っていった。そこで私も呼ばれもしないのに Y氏の後に続いて入っていった。おそらく2人は困っただろうけれど、話がメモリカードの件なら担当の私を追い出すわけにもいかないだろう、違うと言われれば出ていけばいいだけだと読んでいた。しかしその時、恐らく Km事業部長は 私も 2人に呼ばれて出席したのだと思ったに違いない。
果たせるかな、話はやはり カメラ開発ではメモリカードを既存のメジャーな SDカードに変更したいという提案で、それまでに彼らが何度も繰り返した<至極もっともな理由>をもう一度並べて「今から」カメラの設計は SDカード対応に変更させて欲しいという直訴をした。彼らが一通り話し終わるまでじっと我慢して、私は最後に一言だけ発言させてもらった。「この新しいメモリカードの話は、デジカメメーカー 2社が合意できたからスタート出来た話です。もし当社がこの枠組を外れたら、F社1社だけでは成り立たないので、アチラも全てのデジカメ商品の開発が頓挫します。会社同士の合意を基に進めている話を今から覆すことの意味をよく考えて判断下さい。ここでリセットすれば当社は以降 この業界では全く相手にされなくなりますから、覆す判断はその覚悟を持って行なって下さい。」とだけ言った。
私が闖入しなくとも Km事業部長は彼らの判断に同意したかどうかは分からないが、少なくとも 新しい事業部長をあまり快く思えない私よりもこの時の開発トップ2人は何かにつけ Km事業部長にミエミエに取り入っていた。だから私は彼らの主張に逐一の反論をすることは控えて、もし元々の提唱者の Kさんの留守に、自分で覆すような判断するなら会社の看板という覚悟を持ってほしい。と出過ぎた事を言ったのかも知れない。
しかし Km事業部長の判断は私の狙い通り「とりあえず、今までのまま進めて下さい。もしそれで決定的な不都合があればその時にもう一度話をしましょう。」というものだった。恐らく、開発の2人にしてみれば K副事業部長がいないはずの隙を狙った土曜日にいるとは思わなかった私に闖入されて導きたかった結論が出せずに、しかも密かに SDカード対応で先回りしたと思っていた彼らの担当の開発製品の方向転換を何ヶ月か遅れで余儀なくされて随分慌てたに違いない。
このことがあったその夜、一晩かけて悩みながら文面を作り、明け方に私は事業部長と副事業部長の2人に宛てて苦言のメールを発信した。一旦決めた話を、しかも会社間を跨いで進行させている話をこうしてイレギュラーな形でひっくり返そうとするのは、しかも新規メモリカードを推進している副事業部長の留守を狙って話が起きるのは事業部長と副事業部長の間の隙が見越されてそこを狙われているからで、当時 Km事業部長が口癖のように言っていた、理解とか融和と言うような(正確な用語は忘れたが)スローガンはまず自ら実践をして欲しいと。
その時、Km事業部長からのリアクションは・・・・何も無かった。少なくとも私には何も。まぁ期待もしていなかったが、もしあればあったで続けていくつかの苦言や提言を進言するキッカケにするつもりはあった。不思議なもので、弦の共鳴のように一部にほんの僅かの振動を加えるだけで大きな共振が起きるような人間関係もあるのに、思い切って大きな外乱を加えたにもかかわらず何も共振が起きないような関係もあるもんだ、とこの時思った記憶がある。
まぁ、そんな社内のドタバタを他所に F社、T社それに専用コネクタを開発するため Y社を加えて4社での度重なる規格の概要や市場戦略などの会議を経て新メモリカード開発の基本合意に至った。SDカードなど先行するカードは普及のために門戸を広げる戦略を取っていたため、メモリカードも周辺機器メーカーなどの OEM販売が乱立し過当な価格競争が起きたという分析を元に、弁護士のアドバイスを元に考えたのは新しいカードはデジタルカメラ以外での普及は捨てて、その代わりデジタルカメラメーカーが普及させ、市場での品質保証もデジタルカメラメーカーが機器からカードまでトータルで保証することにして、そのためにデジタルカメラメーカー以外のブランドでの販売は認めないというのがその基本的な枠組みだった。
しかしグループ内でこの枠組を決めるのも簡単ではなかった。フラッシュメモリチップからメモリカードまで製造する T社は、当然自社のブランドのメモリカードビジネスを広く展開しており、自社がコアメンバーとして進める新しいカード規格のカードを自社ブランドでは販売できないと言うジレンマに陥り、何とか T社ブランドだけは認めてほしいと主張した。しかし T社のブランドを認めてしまうと「デジタルカメラブランドのカードだけを販売する。」と言う枠組みに齟齬が生じて後々他社の参入を認めざるを得なくなると言う懸念があり、私は断固拒否した。
やがてこの枠組が公表されると、とりわけ SD社や Lx社など参入を拒否された海外の有力カード専業メーカーから厳しいクレームが付き始めた。各会社からは何度も米国本社のトップが来日して特許や独禁法などを持ち出してカード販売に参入させるようにとの強引な申し入れが行われた。独禁法に関しては既に弁護士と相談済みで、特許に対してはフラッシュメモリを製造する T社の凄腕の渉外部長 K氏が「大丈夫。彼らが実際に動ける訳がありません。万が一の時は全て対応します。」と言うので全面的に信頼して、独占販売を強く主張した K副事業部長が「PCペリフェラルで広まった他のカードとは違いこのカード市場はデジタルカメラが作る市場だから対応カメラを販売しない会社には扱わせない。」と臆することなく正面から参入拒否を伝えた。結局は脅しにも屈せずメモリカード専業メーカーのカード販売は実現しなかったが、おそらく相手は日米半導体交渉のようにアメリカ人が特許権などをちらつかせて英語でまくし立てたら日本人は皆縮み上がって譲歩するだろうと期待していたに違いない。前出の T社ブランドの販売を認めていたらここでの主張にスキが生じただけに、4社間での軋みを覚悟して T社ブランドのカードを認めなかったことの正しさが証明された形となり、この出来事で T社の凄腕渉外部長 K氏からも一目置かれるようになった。
そして、いよいよ新しい規格のメモリカードも対応のデジタルカメラも生産の日程が近づく頃になって、忘れもしない一層大変な事態が勃発した。
実は、K副事業部長は韓国のフラッシュメモリーメーカー Sm社のトップと懇意で、この枠組に Sm社も参加させるように交渉しろと言い出した。理由は至極もっともで「1社供給では製造ラインに何かあったら困るし、価格も高止まりする。」と言うことに加えて、当時は もう一社の F社の事業部トップはその昔、T社に在籍していた関係上 F社と T社はかなり緊密な関係で、若干距離を置く我が社とはビジネス上 正三角形よりもかなり歪な三角形の様相だった。K副事業部長の狙いはそこに Sm社という楔を打ち込んで揺さぶりたいと言う思惑があった。しかし、 T社にとって見れば「自社が発明したフラッシュメモリを半導体摩擦などで渋々許諾したにも関わらず、その後牙城を脅かすまでに成長した Sm社を新しいカード製造にまで参入させるなんて以ての外」と言うもので、私の提案は言うまでもなく箸にも棒にも掛からない状態だった。しかし、K副事業部長は一旦言い出したことは引っ込めることは絶対にしない。主張が通らなければ SDカードに戻す、と言い張った。 T社では通常の交渉は例の凄腕渉外部長 K氏が対応していたが、この件は事業部としての判断が必要ということで当時の M事業部長、後の社長が出席していた。対して私はかなり格下とは思ったが、 K副事業部長の指示もあって渋々何度か気の重い交渉に単身出向いた。しかし当然相手は譲るはずもなく、いよいよ日程が迫り最後の判断を数日後に T社から回答しに来てくれるという最後の会議の日、珍しく M事業部長が私の帰りがけに会議室を出てエレベーターまで見送りに出てくれた。私は「チャンスだ! 今しかない!」と思って、「K副事業部長は言い出したら絶対に聞きません。御社が譲歩してくれないとこの件は本当にリセットすると思います。」と伝えた。ここまで大変な交渉を進めてきて、あと一歩という所まで来たのに、相手からの弾ではなく身内からの弾で実を結ばないのか!と思ったら気持ちは最悪で、外部業務者用通行証までもらった T社に来るのもこれが最後になるかも知れないと思ったら、多分これ以上無いくらい暗い顔をしていたと思う。
そして、数日後 T社トップが我社に回答を持ってくると言う日の朝、その前の夜に「主張を絶対に曲げない Kさんと一緒の仕事をするとなった時に、もしかしたら?と思った辞表を出すのはもう今しかない」と腹を決めて書いた辞表を懐に忍ばせて、出社するなり K副事業部長の部屋に出向いた。「今日、T社が最終回答を持ってきますが、私も全力を尽くしたつもりですが、それでももし『ノー』だったらどうします?」と聞いた。K副事業部長からは予想通り事も無げに「当然ご破算にするだけだ。」と言う答えが返ってきた。やはり、と思いつつ「では、これを読んでおいて下さい」と用意した辞表を机の上においてそのまま部屋を出た。その直後、血相を変えた K副事業部長が部屋を飛び出してきて「なんだこれは!」と叫んだが、時間的に中身をよく読んだとは思えなかったし「そこに書いた通りです。よく読んでいただければわかると思います」とだけ答えて自分の席に帰った。
そして、いよいよ T社の来社で私は気まずい雰囲気で応接室に並んだが、それを察したかのようにすぐ T社の M事業部長が切り出した。「御社の意向は十分にわかりました。当社としては 半年のプライオリティーで Sm社に仕様書を提示することを承諾します。」と思いもしなかった回答くれた。私が思わず ホッ とするのと同時に、K副事業部長が「いや~ぁ、Mさん、助かった。御社がノーと言ったら私はこの男をクビにしなきゃならなかった。私がご破算にすると言ったら彼が辞表を叩きつけて来たんでねぇ。」と笑いながら私を指さした。T社の回答もさることながら、まさかここで辞表のことを暴露されるとは思いもしなかったので私も二度ビックリしたが、相手の M事業部長や K渉外部長始め当社の周りの人間はその話にもっとビックリしたらしい。とりわけ内心「ノー」と言う答えを期待して出席していたであろう件の開発トップの H氏のビックリした顔は忘れられない。
後々、T社の K渉外部長や F社の交渉担当者から一緒に飲む度に「いや~ぁ、私はこの仕事に首をかけるつもりはなかったけど、Yさんはクビをかけてたんだ。」と何度も冷やかされた。しかしこのことがあってから私の共同開発に対する立ち位置が認められたのか、三社の関係は正三角形に近くなり以降の交渉はトントン拍子に進み、私が提案した独占のスキームや新しいカードのネーミングもすんなり受け入れられた。それから約半年後、無事新カードと対応カメラが2社から発売されたが、私達の狙い通りカードの不用意な価格変動は最小に留まり、カードビジネスは順調にスタートした。
後に(私が退社してからだが)風の噂に、その事業はカメラメーカー2社にとってほとんど何も開発行為を必要としないのに年間数百億単位の売上高とその何割もの純利益を上げていると聞いた。私ともう一人の技術者の 2人だけで交渉し、1年ほどをかけただけの仕事だったが、一時期デジタルカメラ本体の赤字の穴を埋め事業全体の利益の大半を稼ぎ出したようだ。しかし真っ向からツブしにかかった開発トップがリーダーを務め何十人と言うエンジニアが関わった製品の穴を埋めているであろう図式は社外から見ていても胸がすくものだった。

今日の写真は娘の家の後ろの田植え後の田んぼに放し飼いにされたカモの番が日光浴に出てきていた。
2017/06/06
 
-1912- 天邪鬼:その8
昨日まで書いた1号機の開発・発売は、会社として長年の懸案であった新規事業創生としてデジタルカメラ事業を立ち上げるために、社長が風雲児の K部長に託した「会社としてのデジタルカメラ事業に対するプレゼンスを示せ。そのためには他社に先を越されることなくトップで本格的なデジタルカメラの商品化を実現してアッピールしなければならないが、それには1年での商品化が必須だ。」と言うターゲットが基本にあった。しかしそれに対してそれまでデジタルカメラを研究してきた研究部隊は、本格的なデジタルカメラの開発にはどうしても2年以上かかると言って応じなかった。そこでまず私と T氏が新事業推進部に人事異動して社外も含めて1年で商品化するためのシナリオづくりをすることになって、結果S社という有力な共同開発先を見つけて共同開発することになった。しかしそれにも関わらず、研究部隊のリーダーはあくまで出来るはずはないと言い張り協力を拒んだ。話し合いでは埒が明かないと判断した K部長は、「社長方針」を錦の御旗にして結局2つあった研究部隊の片方のそれまで業務用カメラを担当していた部隊のリーダーと部長を外し、私と T氏が移動して傀儡として研究部隊をコントロールすることでS社と1号機の共同開発を行う組織改編を断行した。
そして途中数々の横槍や反抗、「ありがたい」指摘などが山ほどあったものの、結果は社長から私が移動初日の挨拶で指示された日から1年半、S社と共同開発をスタートさせてからキッチリ1年で発売に漕ぎ着け、付け焼き刃の自前パワーポイントでの新製品発表会を経て、メディアや市場は私達の期待以上で K部長の読み通りの反応を示していった。一方社内はと言うと、それまで計画スタートから10年近く経っても売上高50億円前後で推移する新事業がある中、組織のスタートから1年足らずなのに突然1号機だけで100億円近い売上を上げた事業が出現し新事業推進部に注目が集まり、さすがに上層部のあからさまな反対は納まったものの今度は既存事業部間で人事的な駆け引きの対象にされ始めた。
そして2号機。
事業シナリオ作りから1年でまず私達が1号機の発売に漕ぎ着けて時間稼ぎをしている間、残されたもう一方の元研究部隊は本格的な自社オリジナルのデジタルカメラの開発を推進していた。我々が1号機の開発をスタートさせる前から、より本格的なデジタルカメラをターゲットにキーパーツである CCDは理想的な画質を実現するためにプログレッシブ方式原色フィルターの CCD( 画素数 SXGA(1,280×1,024))と決めて、時間がかかることを前提にその開発検討から始めていた。私がまだ1号機のプロジェクトマネージャに横滑りする前、私も参加して国内外の受光素子メーカーに対してデジタルカメラ専用 CCDの開発受託の可能性を打診したが、1995年のこの時点ではまだコンシュマー用としては45万画素のデジタルカメラしかなくて高画質デジタルカメラ市場の可能性は予測されておらず、それほど売れるはずはないと思ったのだろう、どのメーカーからも色良い返事は帰って来なかった。それでも何度かの交渉をした結果、CCDの量産実績の少ない N社が受託してくれることになり1号機の開発と並行して2号機の計画が具体的にスタートしたのだった。スタート前の1995年9月 N社との打ち合わせ時、「140万画素ものデジタルカメラがいったい何台くらい売れるんですか?」と聞かれ、私は「当社は20万台売るつもりです。」と答えた。当時はまだパソコンの多くのディスプレイモニターが CRTで解像度もVGA(640x480)が主流の時代で、そのモニターに表示しきれない画像を撮影するデジタルカメラが20万台も売れるという主張は出席者から一笑に付されたと感じた。しかし我々はパソコンのモニターに表示する用途はそれほど重視しておらず、あくまで従来のカメラユーザーがプリントするためにデジタルカメラを使用することを想定しており、 K部長の「カメラ市場は良い商品なら 10万円の商品が年20万台以上売れる市場だ。」と言う予測の受け売りだったが、それを説明してもカメラユーザーの特性を知らない人たちには理解できなかったようだ。
それが1号機が発表され今までのデジタルカメラとは異質な画質をメディアが取り上げる機会が増えるに従い、今まで関心を示さなかった受光素子メーカーがみんな手のひらを返したように「次は何百万画素の受光素子を作ったらいいでしょうか?」と御用聞きのように訪れるようになった。デジタルカメラの「画素数競争」の幕開けである。
1号機が発売されておよそ半年後、2号機は数台の試作評価を経て開発部隊全員が自社工場に場所を移して生産に向けての開発を進めたが、台数を増しての最終的な試作段階に入ると不具合が多発し進捗が思わしくなくなった。それまでに生産立ち上げの経験が殆どなかったリーダー始めメンバー達も評価の度に山ほど報告される不具合を前に、右往左往するだけで優先順位をつけての原因解析や実効的な対策検討が手につかなくなったようだ。
計画した生産開始日が近づくにつれしびれを切らした担当役員のKk常務からは「お前が行って指揮を取れ。」と2号機のプロジェクトリーダーを私に変えるとの意向が示された。しかし2号機は全体工程で行けば今がまさに8合目に差し掛かっているはずで、ここでリーダーを変わっても私が詳細な設計仕様を理解して不具合原因やその対策案を適切に判断するにはかなりの時間がかかるから、進捗するよりも却って遅れる可能性のほうが大きいだろうと考えた。しかも自分たちだけでは出来なかったと思えば、彼らの自信を奪うだけで経験にはつながらないから3号機以降の開発を考えたら決して事業全体のプラスには働かないと判断しその場は返事を保留した。その上で K部長に「出来ないものは私が行っても出来ないかも知れませんよ。せめてもう少し日程を下さい。」と相談すると K部長からは「誰も自分の力なんか分かっちゃいない。最初からここまでと決めたらそれ以上は出来ないが、出来ない目標を示して必死で頑張って出来たところがそいつの実力だ。1号機だって最初から1年で絶対出来るなんて思っていなかったが、お前だって最初から2年と言われればそれ以下では出来なかったはずだ。」と言われてしまった。今まで長いこと開発を続けてきて、それなりに「妥当な挑戦的」目標を立てて組織を動かすことも心得ていたつもりだったが、体育会系の K部長のこの一言には今までにない衝撃を受け日程変更は諦めた。そこで「とにかく工場に行って様子を見てきます。」とだけ言って長野県の生産立ち上げの現場に出向いた。工場に着くとリーダーを始めメンバーたちは見るからにプレッシャーからくる睡眠不足やストレスで青息吐息の状態で意気消沈しており、私の顔を見ると1号機の時と同じように私が傀儡として采配しに来たのかと疑ってビクビクしているのが目に見えた。
結局、私はそんな中途半端なタイミングでリーダーを変わっても良いことは一つもないし、何より戦意を失ったままの兵隊で勝ち戦は出来ないと判断し、徹底的にリーダーのバックアップをすることに決め、リーダーのS氏にはそのことを正直に話した。そして全員を集め「今が胸突きの八合目だ。頂上を極める前には必ず目標が見えなくなって険しい岩場ばかりが目に入るような胸突き八丁があるが、そこを凌いで頂上に立てば今までの苦しさがウソのように晴れて素晴らしい眺めが待っている。1号機も苦しかったが、それを乗り越えたから社内のみならず今のように新聞・雑誌や TVまでもが注目してくれる。その時はあの苦しい場面で諦めなくて本当に良かったと思える。頑張ればその日は必ず来る。今諦めたら今後君たちは後ろ指をさされるが、あと少し頑張れば私達のように皆から拍手で迎えられる。このままで今までの苦労を全て私に横取りされるか、奮起して自分達の成果として今後の糧にするか、決めるのは君たち自身だ。」と話した。この話で1号機の部隊を私が引き受けた時に「1年で生産開始するなんて、そんな手品のようなことが出来るはずがない。デジタルカメラを何も知らないくせに無責任なことは言わないでくれ。」と憤慨して抗議し、その後も私に対して批判的だったリーダー S氏は、「分かりました、言う通りです。このままやらせて下さい。」と一気に表情が明るくなった。
その後生産が始まるまで、工場では1日の終りに各ユニットの責任者による会議を開き、何が問題かの報告を受け、問題点の解析方法や原因に誤りはないか、その対策が的を得ているのか私もリーダーと共にチェックし、その対策が計画通り実行されているかに気を配ると共に、工場での生産立ち上げ経験のないメンバーが工場の技術者達から信頼されておらず動かしきれていないと見て、工場勤務時代の人脈も活かしてバックアップに腐心した。また1号機と同じく品質管理部門の責任者としての立場を活かして、不具合の重要度が低いと判断したら思い切って検討から外したり、日程が困難な対策は次善の策を了承したりした。そしてその都度全体の進捗状況を本社の事業推進部に報告し担当役員や K部長の不安を取り除いた。
そんな気配りが効いたのか進捗は目に見えて改善し、加えて私が主査する出来試合のような品質会議はその後は無事1回で通過し、2号機は当初計画から2ヶ月ほどの遅れで生産が開始された。
生産開始に前後して、私は再び今度は2号機の発表会用プレゼンテーション資料を作り始めた。実は社内オリジナルの2号機は、S社に委託した80万画素の1号機のマイナーチェンジ機の開発とほぼ同時進行しており、こちらは再び T氏がリーダーを務めていた。マイナーチェンジ機の記者発表は T氏が発表プレゼンを行う事になっていたが、自分ではパワーポイント資料の作成までは手が回らず、相変わらず広報部は出来ないと言うので再び私が作成し、T氏にメールで資料を送付して読んでおいてもらい工場から発表会場に駆けつけて発表を行った。一方、戦略的に進めたオリジナルの2号機の発表は K部長が自ら行った。
自社オリジナルの2号機が発売されると市場ではその圧倒的な画質に1号機を上回る反響が沸き起こった。加えて2号機は1年前に発売した1号機の対応を競合他社が進める中での発表となり、その圧倒的な画質の向上で他社は再度計画の見直しを迫られたようだった。
この後暫くすると、デジタルカメラの事業が拡大するにつけ古巣のフィルムカメラ事業部や情報機器事業部が併合されるなどして事業推進部は事業部に格上げされて組織が飛躍的に増大していった。そして自分で気づくと私はフィルムカメラの開発時代からそれまでずっと大勢に迎合することなくやってきたつもりだったのに、そしてデジタルカメラ開発に飛び込んでからは周りの反対をバネに本当に我が道を行っていたのに、いつの間にか自分が迎合したと言うよりは大勢の方が自分に合わせて流れるようになってしまったのか、結局は大きな流れに流されているような気がしてきた。それでも市場はまだまだ画素数競争が加熱し、1千万画素の声が聞こえる頃になると、かつての CCDメーカーの人達から投げかけられた「モニターに表示しきれない画素数のデジタルカメラ?」という疑問が今度は「A4サイズプリントでも表現しきれない画素数の写真を撮るコンシュマー用デジタルカメラ?」という疑問になって自らに跳ね返ってくるようになった。

今日の写真は娘の家の庭に咲いていたタイム?だろうか。もう花は枯れてしまったが2週間ほど前の撮影。
2017/05/28
 


-1911- 再び天邪鬼:その7
(思い出した時に書いておかないと年々私も記憶が怪しくなってきたので・・・・1年前にもほぼ同じ事を書いているが、別視点から敢えて書くことに)
しかし何と言っても最大の山場は生産開始予定を2ヶ月後に控えた6月末、専用 ICの一次試作が出来上がってきた時だった。IC内の幾つかの重要な機能にバグが見つかり、そのままでは生産移行出来ないと判断したが、最初の工程から修正したのでは生産開始が2ヶ月ほど遅れてしまう。計画通りの日程を確保するには ICの途中工程からの修正で出来るかどうかが問題で、しかも最終確認が終わっていないのに ICの初期工程は既に生産に入らなくてはならないし、その他の日程のかかる光学部品やメカ部品なども生産を開始する時期にさし掛かかっており、加えて既に記者発表会の会場を押さえなければいけない時期でもあった。S社内では特急で原因を解析し途中工程からの修正案を検討したのでその説明をしたいと連絡があった。内心では画素数こそ少ないもののベンチャーとの共同開発やビデオで実績のある回路の寄せ集めで回路ブロックごとには確立したユニットだから、最終のメタル層の修正で十分修正できるだろうと思ったが、開発ステップからするとそんな時こそ油断は禁物で、簡単な修正でもやり直しが発生すれば発売日程は崩れてしまう。
だから今度こそ勝負どころと思った私は、「当社としてもここから先はプロジェクト以外の部門を動かさないといけなくなるので私だけの判断では進められません」と、この時だけは K部長と Kk常務を担ぎ出して一緒にS社に出向いてもらった。その意を汲んでか、S社は On事業部長が自ら回路の不具合原因から対策案まで全てを説明してくれた。最後に「この通り我々は全力で計画の日程を死守します。御社も予定通り発表して下さい。」と言って太鼓判を押された。
これには私も驚かされた。自社ではこうした技術内容の説明は、部長はおろか課長がすることも稀で担当のリーダークラスが行うことが多かった。社外に対する説明とは言えバグの原因から対策案まで理解して納得しなければ出来ない説明を事業部長が自らしたことで、流石に「分かりました。その通り進めて下さい。当社は予定通り生産・販売に向けて準備を開始します。」と答えざるを得なかった。
おそらく S社の社内では事業部長自らの力のこもった約束を反故には出来ないと担当者までもが必死で修正・確認作業を進めてくれたに違いない。それから約1ヶ月後バグ対策した ICが出来上がると、事業部の威信をかけた修正は全ての不具合がとれて ICは見事正常に動作した。もし修正が失敗していれば見込みで生産スタートした生産用 ICは全て廃棄処分しなければならないかも知れず、そうしないで済むことに胸をなでおろすと共に初めて「1年」の実現が見えてきた。
そして On事業部長の太鼓判からまもなくして社内では光学部品の生産の準備と発表会の準備が開始された。発表会は N新聞の大ホールが予約され、新聞・TVなどのメディア各社はもちろん主だった写真家や主力販売店宛に1ヶ月後の日付入りで発表会の招待状が発送された。広報から招待状が発送されたことを聞かされて、今までは何か問題があれば試作費用など合計にして億単位の損失は発生するものの内部の損失処理で済んだが、発表会を公にしたこれからはそうは行かない、「もう本当に後戻りは出来ない。」と言う一層の緊迫感がのしかかってきた。
そんな緊迫感の中7月末の夏休み前になるといよいよ最初の試作機が完成すると連絡があり、S社の工場に T氏と私が招かれて試作1号機の動作確認に立ち会った。室内で事業部の女性をモデルにしたり工場敷地内で風景などを撮影したが、カメラのモニターに映し出される画像はもちろん、即 PCに取り込まれて大画面で表示された画像、そしてプリントされた画像はどれも想像以上の出来栄えで関係者からは一斉に拍手が湧いた。
続けて社内評価用の試作機が数台作られて、私の手元にも2台が届いた。私はその試作機を使って早速発表会用のサンプル写真を撮り始めた。試作機自身の写真を初め同時発表する他のシステム商品のモックアップや花の写真、そしてプロジェクト内の女性などを試作機で撮影してそのファイルを夏休みに自宅に持ち帰り、夏休みを全て潰して自宅に籠り発表会用のプレゼンテーション資料を作った。
実はそれまでの新商品の発表会はプロジェクトリーダーが行うという決まりがあり、それはメカが主体のフィルムカメラではメカ設計者のリーダーが担当することが普通で、電気系エンジニアの私は一度もやったことがないばかりか花形商品を担当させてもらったこともないので発表会に出席したことすらなかった。しかし広報の担当者が言うには、商品の発表会は OHPを使って説明するので手書き原稿と写真撮影用の試作のサンプルなどを渡せば、広報部内で OHPシートを作ってくれると言う。OHPとは透明シートの文字や写真を投影し1枚ずつめくりながら説明するもので、原稿は Wordなどの一般の文書作成アプリで作ることが出来るから私は広報に頼む必要はない。しかし私としてはこんなすごいデジタルカメラの発表に旧態依然の OHP ? あの白っちゃけた文字や画像? こんなにきれいな写真はたくさん見せたいのにその度にシートをめくったら注意が逸れてしまう、それで見る人を感動させられるの? という気持ちが強かった。ここは鮮明な写真が投影できて、しかも画像だけをズームアップするなど効果的に次々と切り替えたり文字が行ごと、一文字ごとに次々表示できてキーポイントを強調できるパワーポイントというプレゼンテーション用のアプリを使って発表すべきだろうと思った。しかしそのことを広報に話すと、担当者は困った顔をしてパワーポイントなんて広報は作ったことがないし委託先にも作れる人がいないだろうと言う。
実を言えば、私自身もそれまでは アメリカから来た Apple社などのコンピュータ関連の会社の人が発表会で使っているのを見ただけで社内の人が使うのは見たことがなかったし、自分でも概要を知っているだけで触ったことすらなかった。しかし思いついたらやらないと気がすまない質なので、広報との話の後で早速パワーポイントアプリを購入し、自分のノートPCにインストールしてみた。1時間も触ると文字や写真の挿入など大体の操作はできることが分かったので、広報の担当者には OHP装置や原稿の作成などの手配は断って、代わりになるべく明るくて解像力の高い PCプロジェクターの手配だけを頼んだ。広報担当者は戸惑ったようだったが逆らうわけにもいかなかったんだろう、手配を了解してくれた。
と言うような経緯から、言い出した手前 夏休み中に完全な発表会資料を自分で作らなければいけなくなった。
しかし、作りながら覚えたパワーポイントは想像以上に強力で、特にスライドショー効果と呼ぶ画面の変化は当時の OHPの退屈な画面しか見たことのない人には斬新で、時々刻々と変化しながら表示されるきれいな画像や文字の一つ一つに注意を引きつけられた・・・と思う。だがこの時のプレゼンテーション資料は広報を始め誰からも事前チェックを受けず、私の思い込みをぶっつけ本番でお披露目する結果となる。
そんな夏休みも終わり9月に入っていよいよ新製品発表会が行われた。 K部長の狙い通り事前の案内で会社としての意気込みが伝わったと見え、会場は報道各社始め競合の他社まで詰めかけて用意した 300席が満席となって追加で椅子を並べる中、冒頭の社長挨拶の後、いよいよ私が新製品の具体的な発表を行った。プレゼンテーションは試作機で実際に撮影した人物や花などの画像もふんだんに取り込んだ結果、拙い話術にも関わらず私が一番伝えたかった「こんなにきれいな画像が、フィルム現像をすることなくその場で利用できるんです」というメッセージは間違いなく伝えられた。その証拠に発表後の製品展示ブースには人が殺到し、試作機には触るのも大変な状況で、用意したA4サイズのサンプルプリントにも驚きの声が聞こえ、広報は事後の取材の予約をさばくのに嬉しい悲鳴を上げた。
発表会後、帰ろうとした私は興奮気味の広報部長に急遽慰労会に誘われて「大成功だ! こんなに盛り上がった発表会は初めてだ。」と嬉しい一言を頂戴した。広報としてはきっと私のプレゼンが終わるまでヒヤヒヤで「初めてのパワーポイントで初めての記者発表なんて無謀だと心配したけど」と言う前置きを付け加えたかったに違いない。
まぁ私自身、初めての公式プレゼンなのに経験のないパワーポイントであったのにも関わらず、ぶっつけ本番でプロジェクターとの接続チェックも事前に行っておらず、万が一の時のサブの PCやプロジェクターなどの準備もなく行ったわけで、投影出来なないなどの不測の事態が起きなかったことの方が不思議だったと、後日になって冷や汗をかきつつ思った。

今日の写真は昨日出かけた先の古刹 高山寺の塀の外に咲いていた珍しい黄色い花。どうやら木蓮の仲間でキンジュという種類らしい。
2017/05/21
 
-1910- 蕎麦食い道中
古くからの知人のA氏に誘われて蕎麦食いに小川村~美麻村方面に。美味しい蕎麦やお焼きを食べながら遠望の北アルプスと新緑を楽しんだ。写真は途中の高山寺という古刹の三重塔。千二百年前に坂上田村麻呂による創建で、この三重塔は800年前のものだという。
2017/05/20
 
-1909- 草刈り機の工夫
娘の家の庭の草刈りを頼まれた。春の若草から夏草になりつつあり、今のうちに刈らないと手に負えなくなる。去年、真夏になって刈ろうとしたが手に負えなくなって業者に大枚を払って刈ってもらったらしい。今年は・・・ということでネットで電動の草刈り機を業者の費用の何分の一かで買っておいたから、それを使ってくれと言う。しかし見るからに軽くて操作はやり易そうだが耐久性が乏しそう。
そこで背の高くなる茎の太めのアレチノギクなどの雑草は鎌で粗く刈っておいて、背の低いクローバーなどの雑草は腰が痛くて刈りきれないので電動の草刈り機で刈ろうとした。途中まで刈ったが、危惧した通りプラスチックの歯が硬くて太い枯れ草の茎の切り株に当たって折れてしまい振動が大きくなった。プロペラのようなプラスチックの刃なので石や硬いものに当たると簡単に折れてしまうらしい。交換しようと箱の中を見ると既に2本も折れた刃がある。それを見た瞬間に閃いた。もしかして、折れた刃を2枚重ねて止められれば折れた刃がもう一度使えるかもしれない!
でネジを外してみると結構長いビスで止まっている。シメシメということで、折れた刃2枚を互い違いにして取り付けたら問題なく取り付いた。写真上が取り付け後の上面写真、下が側面写真。赤丸のところが刃の折れた部分。これでスイッチを入れても片刃の時のような振動はない。これで無事残りの草も刈り終えた。やはり屈まないで出来る作業は楽だ。
こうした道具は消耗品を売って儲ける仕組みだが、消費者も自衛で知恵を出さなくてはいけない。自宅に帰ったらアルミ板を削って刃を作ってみようか? ちなみに2枚取り付ける場合、折れた刃それぞれの長さが異なっていたら長い方は等しい長さまで折り取った方が振動は少なくなるはず。

今日の写真は、これも雑草のうちなんだろう。ヒレハリソウ(英名:コンフリー)という帰化植物らしい。土手に何本も生えていた。牧草用か何からしくほとんど養分のない所でもあっという間に 50Cmほどに育ってしまった。
2017/05/19
 
-1908- 68歳!
とうとう68歳になってしまった。あまり誕生日は迎えたくないが、家族はそんな心情を察してというよりは単純に忘れてしまって「おめでとう」の一言もなかった。(逗留先の娘だけは流石に何日か前にプレゼントをくれたが)
という「暗~い」話題はさておき #1905まで続けた話の続きを。

実は、この1995年10月初めに立てた「商売の神様」K部長の計画は1年でデジタルカメラ1機種を発売するというだけではなく、デジタルカメラの商品化は会社としての本気度を見せてプレゼンスを示すために本体が80万画素でモニター付きのフラグシップ機と形は同じながら45万画素でモニター有り無しのより安価な2機種を加えてカメラ本体全3機種、更にそれらのカメラ本体以外に、画像ファイルをPCに取り込んで加工保存するための PCユーティリティソフト、PCなしでカメラから直接プリントできる画像用熱転写プリンター、カメラ内のデジタル画像をPCを使わず電話線経由で遠隔地に送信できる通信アダプターまでデジタルカメラのトータルシステムとして同時発表・発売するという、開発陣容とは裏腹な「壮大」な計画だった。
そんなシステム開発は本来ならそれぞれの商品に開発者数人と開発リーダーを配置したいところだが、実態はと言うとプリンターは担当者すらおらず、PCユーティリティは元研究部隊で業務用 PCユーティリティを担当していた A氏、研究部で画像処理ソフトの研究をしていて私が話を聞いている内に一緒にやりたいと言いだして移籍した研究者 O氏、それにどうしても開発をやりたいと異動希望を出していた工場の製造技術職場のエンジニアを中心にソフトウェアの関連会社から出向したソフトウェアエンジニア2人のにわか混成チーム、通信アダプター部隊は通信機能付き業務用カメラを開発していた元研究部隊のエンジニア数人を当てたが唯一まとめ役がいた。プリンターについては急遽フィルムカメラ事業部からカメラの周辺機器を担当していたエンジニアが 社外の熱転写プリンターを製造しているメーカーから OEMするために交渉、進捗管理役として移動してきた。
そしてカメラ本体3機種は新しくフィルムカメラ事業部から「因縁の」移籍をしてきた開発者数人を新生推進部サブリーダーのT氏がまとめて3機種の開発リーダーを、それ以外は私がプロジェクト全体の管理とともに開発の実務リーダーも務めるという、寄せ集めで言葉通りの「泥縄」的対応だった。特に PCユーティリティについてはリーダーの A氏もそれまでマニュアルを熟読して使ってくれるような業務用アプリしか経験がなくコンシュマーユーザーに必要な UI(ユーザインタフェース)の設計は出来ないと頑なに尻込みしたので私が UIなどの仕様決定等もサポートすることにした。
そして T氏と私がフィルムカメラの経験から立てた「絶対に1年で商品化を達成する」ためのカメラの設計基本方針は、「可動部分は極力減らす。無理な小型化はしない。」というものだった。そのために一番品質問題の起きやすいカメラのレンズユニットは単焦点で絞りは精度を出しやすい丸い穴の空いた円盤を回すターレット方式としてシャッターを兼ね、コストは犠牲にしてパルスモーターによるオープン制御で駆動することにした。加えて鏡枠設計のスペシャリストとして元工場の開発にいて技術レベルは超一級ながら上司と反りが合わずに会社を飛び出し個人設計事務所を営む H氏にも応援を求め万全の体制を敷いた。ストロボユニットも、多くの小型カメラのように本来なら発光部はポップアップさせて赤目が起きづらくすべきところだが、ストロボユニットを可動にするとそれぞれの部品のスペースが限られてより高電圧がリークし易くなるという品質上の一番厄介な問題が考えられるので、ポップアップ機構は止めて本体埋め込み固定とし、その代わり赤目対策はデジタル画像の強みを活かしユーティリティソフト側で自動補正を考えることにした。但し自社分担の電気回路、とりわけストロボ制御に関しては私もフィルムカメラ時代から関わっていたので自分の判断を信じて冒険することにした。ストロボ制御回路は元研究部隊でストロボ周りを担当していた Ys氏が担当になったのだが、彼はそれまでと全く同じストロボ専用受光素子による光量制御方式を主張したのに対して、私はデジタルカメラではせっかく CCDと言う分解能の高い受光素子があるのに何故それを利用しないのか?と疑問に思い、CCDの受光信号によるプレ発光制御を取り入れるように提案した。しかし Ys氏は「そんな経験のないことをこの期間で実現するなんて私には責任負えません。」と言って聞かなかった。それに対して「誰も君に責任を負えなんて言っていない。最初から私が全責任を負うと言っているんだから言われた通り設計してくれ。」と諭して S社のソフトウェア設計者と打ち合わせを持ってアイデアを話し、具体的な設計が進んだ。結果は見事に当たり、それまでにない精緻なストロボ光の制御が実現し、最後は Ys氏も「言われた通り設計して良かった。」と認めてくれた。
こうして T氏と二人でフィルムカメラの経験を最大限活かして考えられる限りの工夫を入れた設計をしたことで、結果的には経験の浅いメカエンジニアが細部設計を行ったにも関わらず、試作は狙い通りほぼ一発でパスし特筆すべきことに大きな市場品質問題は起こさなかった。
そうした中で、設計が進むにつれてカメラの製造方法をめぐりS電気の製造部門との間では幾つかの製造上の問題が持ち上がった。
一つは前記のストロボの高電圧のリークを防ぐための作業工程。小型化した内蔵ストロボでは電極の間隔が狭くなるためどうしても数kVにもなるトリガー信号が 数mmも離れていない隣の電極に放電リークしてしまう。これを防ぐためにシリコン樹脂を電極の周りに隙間なく充填する必要があるが、この作業は手作業にならざるを得ず不安定で製造後の品質も保証しづらい。こうしたことを説明しながらフィルムカメラの該当部分の実作業を S電気の製造責任者達に見せると S社内での自社製造に難色を示し「こんな作業は当社の作業基準では受けられません。ユニットで供給して下さい」と言い出した。実は私が工場勤務の間に一番苦労したのがこのストロボユニットの社外製造委託だった。製造委託先でどんなに厳密にチェックしても必ず後工程での不良が発生し、そのたびに委託先との間で作業方法を巡ってトラブルが発生した。それが製造経験皆無の工場で目標通り稼働するためには、私としては何としても責任分担が発生するような製造体制は避けて、後工程の情報が即時に上流にフィードバックできる一貫工程を作ることが必要だと思った。更に品質を保証するための若干のアイデアもあって、それを実現するためには私の意見が通りやすい S社の新規の工程の方がやり易いと判断した。とにかく1年で商品化するためにはストロボユニットの製造から丸ごとS社に受けてもらうしか無いと思っていた。
もう一つの問題はカメラのグリップ部分の曲面に滑り止めのラバー材質を貼り付ける工程だった。接着剤を塗りつけてから成形されたラバーを本体プラスチック部品の表面に貼り付けるんだが、作業者の感覚に頼って接着剤を塗布する工程はストロボのシリコン樹脂の充填作業と同様品質が保ちづらいので「接着作業は当社ではもう10年も前に廃止しました」と無下にもなく断られ、取り付く島すら無い。
S社側では交渉当初から計画に参加していた開発部長が全体の旗振りをしていたが、「製造部長が頑として首を縦に振らず製造の工程設定作業が暗礁に乗り上げた。設計を変えられないか」と SOSが来た。
どちらもフィルムカメラの製造工程では問題視されつつも代わる製造方法が見つけられずそこに至っているわけで「カメラらしいデジタルカメラ」を「1年で発売」するためには設計変更の検討の余地もなく、ここでも もう最後の札を切るしか無いと判断し二度ともS社の事業部長との面会を申し込んで一人で乗り込んだ。社内の交渉は至って苦手な私だが、不思議なことにそれまでの何回かのこうした仕事の分岐点における他社の意思決定者との交渉で、「両社にとって必ず利益になる」と信じた自分の考えを正面からぶつけた結果、周りがびっくりするような合意を取り付けたという経験があり、この時も何となくではあるが上手く行きそうな予感はあった。と言うか断られたら・・・という事はその時には考えもしなかった。
そして問題の交渉の席、S社のOn事業部長、開発部長、製造部長の私から見れば格上の面々が居並ぶ中で私が話したのは結局二度ともほぼ同じ内容だった。「もし御社が今後、カメラ市場向けにデジタルカメラの製造を目指すつもりならこの技術は絶対不可欠の技術です。カメラユーザーはビデオカメラのユーザーよりも女性や高齢者が多くビデオカメラにはないこうした技術が必要です。当社は是非とも『今』デジタルカメラを商品化したいので今回協力いただけるなら必要なノウハウを全て開示し全力で指導します。しかし今を除いたら、今後は当社としても独自のノウハウですから開示することは出来ません。」と事業部としての判断を迫った。結果は案ずるより産むが易し、On事業部長は私が話し終わると即断で「そんなにいい話ならウチの工程を変えればいいじゃないか」と製造部長に工程を内製化するように指示し、結果思惑通り決着することが出来て9ヶ月の生産移行が無事実現した。
これで何とか1年での商品化のレールが敷けた・・・訳ではなく、悪戦苦闘はまだまだ続く。

今日の写真はカラスノエンドウ。土手一面にはびこっているが、よく見るとかわいいマメ科独特の花。
2017/05/16
 
-1907- 身代金要求型ウイルス
今朝の羽鳥モーニングショーを見ていたら、先週末辺りからランサムウェア(身代金要求型ウイルス)によるサイバー攻撃が全世界で頻発し国内でも企業のパソコンから見つかって、今週はもっと大規模な攻撃があるのではないか、と報じていた。しかしその中で対策は「メール添付のファイルや不審なページは開かない」以外ない、と話していたが私としてはちょっと異論がある。
いかなるウイルスであっても、感染前の完全な O/Sバックアップを PCとは別媒体にとっておいて、更にデータは逐次 USBメモリや取外し可能なHDDなどにバックアップをとって、それらはバックアップを取る時以外 PCから外しておく、と言う「予防策」を取ることで、感染した後でも O/Sもデータも復元が可能になる。(正確に言うなら感染後にバックアップしたそれらの媒体を接続しないで、復元専用の起動可能な DVDや USBメモリから起動して復元する必要があるが)
付け加えるなら、私も何度か Microsoft社以外のツールによる O/S領域のバックアップ方法についてページをアップしているが、それはWindowsによるバックアップは O/Sに対する感染の際に感染した O/Sによる起動と別媒体による起動が混同されやすいという事もあっての話。
視聴者の多い大メディアの報道だけに、不安を煽るだけで正確な情報を伝えないことにちょっと違和感を感じた。

今日の写真はテッセンだろうか? 民家の壁の蔦に艶やかな花が咲いていた。
2017/05/15
 

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(2016/12/27 22:38_)
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(2016/12/27 22:29_)
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i:1,180~
(2017/1/6 13:57_)
z(16)


-1906- ちょっと中休み
天邪鬼の話が当初の予想よりかなり紆余曲折して長引いた。まだ続きがあるが、ちょっと中休み。
今日は肉体労働で娘の家の庭を開墾して、キウリ、ナス、トマトの苗を植えた。娘達の家は元々田んぼだったところを土盛して宅地にしたんだが、宅地用にかなりの盛り土をしたので土には大小様々な石ころが混じっていて硬い。備中鍬?で掘ろうにもかぼちゃ大の石が混じっていたりしてなかなか掘り起こせない。半日かかってやっと1平方m程度を30Cmほどの深さに掘り起こし石を取り除いて、何とか苗を植えた。しかし収穫を考えるともう少し掘り起こさなければ・・・・お陰で収穫の前に手にはマメが取れてしまった。明日はきっと筋肉痛だろう。

今日の写真はフウロの仲間だろうか?
2017/05/11
 
-1905- 天邪鬼:その5
まだまだ続く。
せっかくS電気との共同開発に合意できたのに、社内の研究部隊の一人のリーダーがそのS電気の電子回路部分の日程に対して「専用ICの開発も含めて1年では出来るはずがない。」と言い張り、上司の部長や周りのリーダー達も同調した。一連の試作確認ステップや画質調整などを日程表に並べると2年でも困難だと社長から聞いた通りのことを言う。一方、社内分担のレンズ系や外装の開発もフィルムカメラのメジャーな従来製品では2年、雛形のあるマイナーチェンジですら1年半というのがそれまでの平均的な日程で、それも何か技術問題が起きるたびに3ヶ月単位で伸びる、と言うのがその頃の実績だったから、例え心臓部分を社外に任せるにしろ全く経験のない製品で6ヶ月もの日程を短縮するなんてあり得ない、とそれも「至極もっともな理由」で計画への協力を拒否された。
この時のやり取りを周りで聞いていた人がいたとしたら、おそらく100人中100人が彼らの主張が正しいと思ったに違いない。私自身「出来る」と思っていたわけではないが「折角のチャンスだ。やってみる価値はある」という思いが半分、「出来なかったらもう開発には戻れない」という不安が半分という状態だった。それと既存事業部の場合は、新製品計画が頓挫したら、その後に続く製造現場は製造するものがなくなり、営業は期待した新製品の売上が飛んでしまうので会社全体としての損失は計り知れないが、新規事業の場合従来の売上にアドオンで ある意味営業も売上増は半信半疑だから、最悪失敗しても開発投資の損害だけで古巣の開発から比べれば何倍もチャレンジできる、という打算のようなものもあった。
そして、S電気側の日程の信憑性は分からないものの、ビデオ製品を何度も生産している事業部のトップが言うことだし、最初にS社に注目した米国のベンチャーとの開発で解像度は低いものの雛形となる専用ICの開発は先行しているのでそこそこの可能性があるだろうし、より事情の分かるレンズ系や外装など自社分担分に関して私には僅かながら目算があった。と言うのもそれまで経験した開発~生産のステップの中で純粋な技術作業に必要な日程は実質9ヶ月程度、残りは開発・品質保証・営業などが技術問題の方向付けに対して建前論を展開し合って責任の押し付け合いから着地点を見出す合意形成を行うための「会議」とそれに至るための事前のデータや資料の準備期間、と言うのが私の見立てで、その多くが無駄な会議をスルーして試作ステップを純技術問題の検討に絞り込めれば1年は「不可能ではない」と言うもの。しかし「確率は?」と聞かれれば全く経験のない新製品では限りなく低いことは歴然で、そんな話は説明しても既存組織のリーダー達には耳すら貸してもらえるはずもなかったし、その時は私自身が概念だけで具体的な策までに展開できていなかったため胸の内にしまったままだった。 ただ、後日件の計画に反対するリーダーと二人だけになった時「本当にあんないい加減な計画に加担するつもりなのか?」と批判混じりに問われた時「すべての不確定要素をリスクという言葉に押し込んで封をしてしまうと何も革新できないと思います。重要なのはリスクを要素に分解して対応策を貼り付けて判断することだと思います。」というような問答をした記憶がある。(多分もっと拙い言葉だったし、私のことを「電子映像の素人が」と見下している相手には伝わらなかったとは思うが)
そしてそこからがK部長の豪腕ぶりだった。社長命令直々のプロジェクトと言うことで、従来の研究組織の部長以下リーダー達を外して新たなプロジェクト組織を編成し、私が開発部門のリーダーにT氏がサブリーダーに据えられる、という人事が発令されてしまった。それまでは正直、私がリーダーを仰せつかるなんて思ってもおらず、私にとっても青天の霹靂のようなプロジェクト発足の10月初めの開発部隊との顔合わせで、私とT氏はメンバーらの「傀儡政権」を見る冷たい視線を浴びつつ前途多難なスタートを切った。そしてそれ以降も影に日向に差し向けられる「元」リーダー達からの指摘を「全責任をとる」の一言で一蹴し、更には彼らの元部下達の「消極的不服従」を強権命令の発動で強引に進めることになった。しかもその時知己のサブリーダー T氏からは「Nさんはカメラ本体にも関わってくれますよね? 逃げるなんて許しませんからね」とまさに背後からもナイフを突きつけられるような一言を頂いてしまった。ただ私の腹の中は、失敗すれば全責任を自分で負うしかないが、成功すれば論より証拠で何某かの経験と自信を製品立ち上げ経験のない彼らにも残せるはずとの思いもあり、この時ばかりはそれまで滅多に使ったことのない「強権」のトップダウンに頼って部下の理解よりも開発日程を優先させた。
次の壁は、古巣のフィルムカメラ事業部への協力依頼だった。「傀儡」で動かせるようになった研究部隊の構成は、前にも書いたとおり研究が主目的だったため電子回路や画像処理の担当者が主体で、商品化に必要な外装や光学系の実務をこなせる設計者は皆無だった。一方それらの設計者は古巣のフィルムカメラ事業部に多くいるが、古巣は既存事業としてのタイトな事業計画を日々遂行しているわけで他の事業を手伝うような「余分な」工数はない。K部長の指示で、それを承知で旧知の顔を思い出しながら協力者の「指名」を行うものの、フィルムカメラ事業部の「元」上司の開発部長にとって事業部を勝手に飛びだした元部下のことを快く思っていないところに厚かましいような指名つきの協力依頼が来たわけで「そんな話は聞いていない」「忘れていた」などと明らかに無視されることの連続。結局私とT氏の交渉では埒が明かず当時の担当役員Kk常務とK部長それに私が雁首並べて当時のフィルムカメラの事業部長に直談判に赴いた。しかし私の元上司の事業部長は終息する前のアナログビデオカメラの事業推進部長を務めていた経過からその事業推進部が解散に至りデジタル画像の研究部隊が生まれる経過に一方ならぬ因縁を抱えていたようで、普段の冷静な人柄には珍しく「自分たちでやるからと勝手に研究部に出て行っておいて、今更手伝ってくれとは何事か」と激怒されてしまい、その剣幕にその場は引き下がらざるを得なかった。しかし最後はこれもK部長が辣腕発揮、社長の一声で無理やり「激怒」にお釣りをつけたように数人の設計者を強引に移籍させる人事が発令されて、やっと社内の設計体制がスタートしたが、その目鼻がついたのは1995年も暮れ。残すは9ヶ月しかなく、協力してくれている S社との進捗打ち合わせでは「御社の方は大丈夫ですか?」と逆に心配されるような日々にますます私の胃は悲鳴を上げ始めた。
そして年の暮れが迫った仕事納めの夜 K部長の主催でデジタルカメラの立ち上げ中枢メンバー数人が呼ばれて忘年会が開かれた。カラオケなどで盛り上がる中 神奈川の北端に住んでいた私は終電を心配して一足先に会場を出ようとした。気づいた K部長が一人で入り口まで送って出てくれてたが、普段年下のものを送り出すことなど絶対にしない K部長の振る舞いに戸惑い恐縮する私に向けて留めのような一言「苦労をかけるがよろしく頼む」が発せられた。私にとってその一言は正に ”がーん”と頭を殴られた感じで、「もう何があっても、このプロジェクトを成功させるしかない。退路は完全に塞がれた。 言われたくない言葉を一番言われたくない人に言われてしまった。」と言うのが正直な気持ちで、帰りの電車の中 座席に座るのも忘れて入口ドアに持たれつつガラスに映る一遍に酔いの冷めた自分の顔を凝視したまま、逡巡する頭の中では密かな決意をした。
『入社以来自分は人におもねることはせず、閥に囚われることを拒否し、ただ技術に忠実であることだけを信条にしてきた。そんな私の性格と矜持を見透かしたようなさっきの一言は Kさんだけからは聞きたくなかった。しかし例えあの Kさんにでも、自分の考えが譲れない時が来るかもしれない。いや Kさんだからこそ間違い無く来る。その時に私にできることは一つしか無い、<辞表で決意を示すこと>しか。 恐らく私が辞表を出したとしても Kさんは一顧だにしないだろうけど、Kさんと仕事したら最終決断場面で何も言わずに引き下がる訳にはいかない場面が 絶対に来る。その覚悟だけは忘れないでおこう』と。
明けて1996年のスタート。私は落ち着かない年末年始を過ごしたものの、休み中に「毒を喰らわば・・・」と腹を決め、慎重に作戦を立てて新年早々 Kk常務と K部長に対して最後の切り札を切った。
残り9ヶ月で生産移行するための秘策とは・・・・試作・生産移行の評価会議を一回でパスさせ、不具合は発見すると同時に私一人の判断で対策案を進めることが出来る体制を作るというもの。本来開発・製造の責任者と品質の責任者は、立法・行政をチェックする司法のように独立していなければならないが、そんな建前論では反対する人たちが主張する「絶対不可能」を「可能」には出来るわけがない。工場でひたすらパソコンに勤しんでデジタル技術を磨いた雌伏5年も無駄ではなかった、今をおいて培ったデジタルの知識を活かす時はない、と思いつつ一方では「民生品のユーザーの実態や要求品質もデジタル製品の機能も良く分からない人が品質判断に参加したら、彼らに機能や不具合原因を説明して理解させるだけで数ヶ月はかかってしまいます。どうせ今の陣容で機能性能の問題点や不具合原因、その対策に日程をかけるのかコストで解決するのかとかマイナーな不具合の市場での影響を総合的に判断して進める判断ができるのは今の組織では私しかいません。残り9ヶ月で生産開始するには試作・生産移行など各ステップの会議での品質判断・責任も全部私一人に負わせて下さい。」と提言した。それを聞いた担当役員とK部長からは「それで出来るならやれ。」と存外簡単に OKが出た。
こうして開発から品質保証に渡る全権の委嘱を取り付けて、その上でその他役員などからの「ありがたい指摘」を頂戴・回避するために都合3回の試作・生産移行会議を最短日程で(形式だけ)開くという基本日程案が確定した。
しかし日程表が出来たから予定通り生産に移行できるわけではない。日々次から次へと勃発する技術問題を即断で対策立案実行しその進捗を管理し、両社間の具体的な分担の線引きや製造上の文化的な違いから生ずる問題の交渉解決など、そこからがプロジェクトリーダーとしての本当の正念場。全権掌握で「皿まで食らってしまった」以上、自分自身と向き合って戦うしかない9ヶ月が始まったが、その詳細はまた。
2017/05/10
 
-1904- 天邪鬼:その4
私は再び岡谷に戻ってきたが、天邪鬼の話はまだ続く。
その最大の大勢逆行のデジタルカメラの1号機の企画・開発での最大の問題は、それまで10年近くデジタル画像を研究してきた研究部隊との軋轢だった。
時遡ること十数年、カメラメーカーもビデオカメラの普及や 1981年の SONY MAVICAショック以来、こぞって ビデオカメラの商品化やその後のデジタル画像技術の研究を開始しており、私の在籍した会社にもビデオカメラの商品化に携わってその事業撤退後はデジタル画像記録の研究に絞って継続した部隊がいた。私が新事業推進部に移動した時点では総勢40人近くいたと思うが、彼らの元の仕事はビデオカメラの商品化とは言っても実態は家電メーカーの商品の OEMだったし、その後のデジタル画像技術研究はいずれ自社開発のデジタルカメラをと言う技術シナリオだけで商品化や事業化は画餅に等しく、従ってほとんど実際の大量生産の商品化の経験はない部隊だった。
逆に、私は商品化の修羅場はいやと言うほど潜ってきたがデジタル映像と言っても、パソコン上で画像処理することに不便はないもののカメラについてはビデオ信号をデジタル化して記録するという基本の原理以上には何も分かっていないような状態。
それが移動初日に社長に着任の挨拶に行くと「当社では内視鏡以来何十年と手がけた全ての新事業は育たなかった。しかしもう待てない。今後デジタルカメラはカメラ・電気各社がこぞって市場参入してくる。その中で当社がプレゼンスを示すためには二番手ではだめだ。他社に先駆けて一番最初に発売することが事業成功の絶対条件だ。それには最早一年しかないと思うが既存の研究部隊は最低でも二年必要だと言っている。彼らには任せておけないので何としても一年で商品化して欲しい。」といきなり檄を飛ばされた。
そこから、社内外含め手当たり次第にデジタルカメラの商品化の検討を始めたが、その時の中心要員は3人。K部長と私、そして旧知のT氏。K部長は凄腕の営業マン。私は電気系エンジニアとは言ってもフィルムカメラ担当で画像処理は上記のように素人同然、T氏は光学理論出身の物理屋でメカ屋の畑を経由して7~8年前に私の下に移動してきたが、私自身がフィルムカメラの先行きに疑問を持ち始めて移動を画策していたこともあり、2年ほどで技術の分かる駐在リエゾンとして私が米国に送り出した男で、当然デジタル映像は素人同然。
そんな状況だったが、まずはK部長のつてで私とT氏の二人が台湾のメーカーを訪問してデジタルカメラのOEM/ODM供給の可能性を探った。台湾では当時パソコン関連の周辺機器製造メーカーがデジタル製品を生産しており、異口同音に「うちなら出来ます。」と胸を張って言ったが、民生用製品の開発というくくりで見ると生産規模や商品の大きさなどに疑問を感じ結論は出せなかった。
しかしそれから1ヶ月も経たずして、国内のS電気が米国のベンチャー企業のOEMでデジタルカメラを製造するという新聞記事が出た。しかも時期的には我々の目標としている時期に一致している。S電気は8mmビデオカメラのOEMを受けたこともあるメーカーで社内にはパイプも多く急遽相手事業部トップに面会を申し込んだ。
一方、社内の研究部隊を使って画素数のシュミレーションを行った結果では、サービスサイズのプリント画質を満足するには最低でも百万画素が必要という結論が出た。そこでS電気には「ウチとしてはカメラユーザーが『カメラ』と認めるにはデジタル画像のままではダメで、きれいな写真がプリントできるカメラが必要だと思っている。そうすればカメラユーザーの殆どが買ってくれる。それには百万画素のカメラが必要だ。」と説明し、共同開発を申し込んだ。いきなりの提案にS電気は戸惑い初回打ち合わせは「出来ません。」という返事しかもらえなかった。しかしそれまでの経緯から「ここしか無い」と決めて再三に渡り訪問し共同開発の糸口を探った。その中でも特に3回目の訪問は私にとって忘れられないものになった。
訪問予定の3日ほど前に私はあろうことか夏風邪を引いて熱を出してしまった。前日は休みを取って寝ることにして電話で連絡を入れると当然K部長が「明日はどうするんだ?」と聞いてきた。「這ってでも行きます。」そう答えるしかなかった。で7月末の暑~い一日大汗をかきながら寝て、その当日まだ完全ではなかったが一応高熱は引いたので前日の言葉もあり新幹線で出かけることにした。しかし当時の私は神奈川の北の外れに住んでおり、新幹線に乗るには中央線~横浜線と乗り継いで新横浜に出なくてはならないので1時間半ほど余分にかかり、何とか起きて出かけたものの皆とは2本ほど遅い新幹線になってしまった。途中「とにかく行きます。」と携帯で連絡しておいて後を追った。まだクールビズなんて言う習慣もない時代、電車の中はまだ良かったが灼熱の大阪の太陽の下 背広とネクタイでまだ完全ではない体調で駅から500mほどのS電気の玄関までの長かったこと。普段でも汗かきの私だが、途中薬屋で冷えた栄養ドリンクを買って飲みつつ応接室に入った時に背広の下は全身汗だくと言うよりずぶ濡れ状態だった。おそらくその席についていた人たちはギョッとしたに違いないが、私は席に着くと同時に冷茶と共に出された冷水のオシボリがありがたかったことを今でも忘れない。
そんな思いをして出かけた甲斐あってか、この時S電気側から思いもしない情報がもたらされた。そこまでのS電気の最大の懸念は撮像素子だった。我々の提示した百万画素の撮像をどう実現するか、と言うことで、新しい素子を開発したのではそれだけで1年以上かかってしまう。当時放送用TVカメラ向けと言った産業用途にしか百万画素以上の CCDは存在しなかったが、それらは CCDだけでカメラの値段ほどもする高価なもので、しかもサイズは民生用途の何倍もあるためカメラのサイズも比例して大型化してしまいとても使える代物ではなかった。それがある CCDメーカーから民生用手ぶれ補正付き8mmビデオカメラ用に80万画素の CCDの開発計画があるという。「それしか無い。」即座にそう決めて、そのCCDの開発仕様書を入手して帰って撮影画像のシュミレーションを行った。百万画素の画質との差は若干あるものの、それまでの民生用最多の45万画素の CCDとの画質比較ではその差は歴然と見て取れ、サービスサイズプリントは「写真」と遜色なかった。一気に社内も、S社の側も共同開発が現実味を帯びて、CCDのサンプル出荷に合わせて試作日程を、生産に合わせて量産日程を立て始めた。それが丁度1年後の1996年9月生産開始というものだった。
そして主な電子回路部分はS電気、レンズ系や外装、ストロボと言ったカメラ技術が生かせる部分は社内で、と言う開発分担の大枠が基本的な考え方で、9月の末に共同開発の合意に漕ぎ着けた。
しかし本当の問題はここからだった。・・・・長くなってしまったので続きはまた明日。
2017/05/09
 
-1903- 天邪鬼:その3
大勢に逆らうと言う話の続きで。人生で最も大勢に逆らったといえば、やはり既存のフィルムカメラ事業部から飛び出し、新事業としてのデジタルカメラ事業を立ち上げた時だっただろう。
実は事業部からの異動希望を表明してまもなく明らかな制裁人事で工場転勤を命じられ、5年間の工場の開発出先組織での勤務の後、人事担当役員も含めた面接で退職をほのめかせつつ「最後通告」を行った結果、やっと新事業推進部への転属が叶った。そして移動前に職場では最後の送別会を開いてもらったがその席上の挨拶の内容は今でも鮮明に覚えている。
話した内容は予てから考えていたことで、自らの意志で安定を捨てて飛び出すという蛮勇が後々に正しかったと自己評価できる結果に結び付くためにも、自から宣言して鼓舞することも必要と考えていた。「今のフィルムカメラ事業は沈みゆく難破船に多くの難民がひしめいているような状況だ。しかしその船を元通り安定させるようなことは私には不可能だが、私に出来るのは一人で海に飛び込んででも もっと大きな安定した船を見つけてその船で皆を助けに来ることだと思う。」というようなことを話したが、恐らくあの時点で大勢はそんなに早く既存のカメラ事業が衰退するとは思ってもいなかっただろうし、「不遜なことを言うやつだ」くらいにしか思われず、すぐに忘れ去られただろう。ただその時私に分かっていたのは、「フィルムカメラ事業は遠からず必ず終焉する。」と言うことと「新事業推進部で旧知の K部長の下で新事業の立ち上げを行う。」と言うことだけで、新事業が大成するという何の確信があったわけではない。ただその先流れに棹をさすことも増えるだろうから多くの軋轢があることは想像に難くなく、それを乗り切るためには自ら退路を断つという決意を示す必要があるだろうと考えたものだった。実際デジタルカメラ1号機の企画開発の過程で社内の猛反発や抵抗にあうたび、何度もこの挨拶を思い出しては「後戻りはできない。トコトンやるしか無い。」と自らを奮い立たせたことがあるから、あの挨拶も無駄ではなかったということだろう。
そして数年後、デジタルカメラ事業は業界ダントツのシェアを獲得し倍々ゲームの売上増を実現し発売の3年後には既存のフィルムカメラ事業の売上を超え、最後にはデジタルカメラの事業推進部は古巣のフィルムカメラ事業部他の既存事業部を併合して新事業部の中心事業となっていったが、そうなった時「ああ、瓢箪から駒かも知れないが、あの時の言葉が実現できた。やはり大勢に逆らってでも自分の信念で行動してよかったんだ。」と嬉しかった。

今日の写真は娘の家の近くの山際のヤブの中に咲いていた花。シロヤマブキだろうか?
2017/05/05
 
-1902- 天邪鬼:その2
昨日の続きで
大勢に逆らった記憶は数多いが、その中の一つに フィルムパトローネの規格のDXコードの対応カメラの開発というのがある。 DXコードとはフィルムパトローネ表面にパターンを付けてそのパターンを読み取ることでフィルムの種類(撮影枚数やISO感度など)が自動で読み取れて、それまでのカメラでは手動でセットしなければならず、忘れると露出の狂った写真が取れてしまうなどの問題が解消できるというもの。1980年代半ばに登場し、カメラ各社も競って対応カメラを開発した。
当然私の在籍した会社も大号令の元、まず特許になる機能を考えて優先出願するという方針が出されて皆がそれに従った。しかし、この規格は元々KODAK社が作りフィルム各社がそれを採用したもので、しかもフィルム感度や撮影枚数という限られた情報で、私には主たる機能のフィルム感度などの自動設定以外にそれほど魅力ある機能が実現できるとは思えなかった。だから方針にも関わらず本気で考えた事はなく1件も出願した記憶がない。むしろ「100年に一度の技術革新」という触れ込みにも関わらずフィルムの平面性・解像力などの制約からフィルムの厚さや面積もほとんど変わらなかったのでパトローネも微々たる小型化しか出来ておらず、ロールフィルムというものを巻き上げなければならないフィルムカメラの限界を見せつけられた思いを強くし、「これでいよいよフィルムカメラの技術進歩も終わりだ。」と確信し、この先フィルムカメラには私のやるべき仕事は無くなったと判断し、フィルムカメラ以外の製品開発に携わることを画策し始め事業部外への移動希望を出した。そんなこんなで私は工場勤務となり、幸いにも意の進まない DXコード対応カメラの開発担当を割り当てられることはなかった。果たせるかな、暫くしてデジタルカメラが登場すると技術進歩が止まったフィルムカメラは市場的には急速に駆逐され事業から撤退する運命となるが、奇しくもその引導を渡す役を買って出た形になってしまったところに私の天邪鬼の「鬼」たる所以があると密かに思っている。
まさにあの時の開発組織の「特許、特許」という号令、それに盲従してゴミのようなアイデアをつつく周りの動きは私から見れば「技術」の「ぎ」の字も読めない熱病か滑稽な茶番のように映った。

今日の写真はヤマエンゴサクという山野草の花だと思う。出早神社境内で撮影。
2017/05/04
 


-1901- 天邪鬼
岡谷の娘の家への逗留が長引いて、この時期気温変化が一年で一番激しい時期だけに、さすがに当初用意した服装では季節外れになってきた。連休なので取り敢えず一旦神奈川に戻ることにして、反対車線の長蛇の停滞を尻目に高速バスで戻ってきた。その車中で再び読みかけの「満州国演義」第四巻の続きを読んだ。その中の記述に触発されて考えたことを記しておく。
時代なのか地域色なのか知らないが、私は小中学校時代に大勢につくことを良しとせずと教わった気がする。
今にして思えば、それは僅か十数年前までの戦争や敗戦体験、或いはそんな深いものではなく単に先生の性格だったのかも知れないが。
軍部や一部の思想家、そして機に乗じてのし上がりたい指導者達に扇動されて巷の人々が正確な情報もないのに熱病のように開戦を支持し鬼畜米英を疑わず、国を挙げて太平洋戦争に突き進んで、覚めてみれば吹き込まれた殆どのことが虚構だったと分かったことの教訓か?「大勢に流されてはいけない、自分の視点でものを見て判断しなければ」と小学校時代の先生からはそんな背景からだったんだろう、天邪鬼もまた必要、とその漢字と共に教えられた記憶がある。(「時には」と言う修飾語付きだったかもしれないが、そんなこと都合よく忘れた)
更に、高校の物理の先生だったか? 体験談として、撃墜した米機の機内に色とりどりの細いビニルコードの束があるのを見て(当時の日本の戦闘機の中にはほとんど電気配線はなく、あってもゴム被覆の周りを布で巻いたような太い配線だったらしい)、「こんな技術の進んだ国と戦争して勝てるわけがない」とその時点で敗戦を予想したと話してくれた。大勢の風評ではなく自分の目で事実を見て考えろと教えられたような記憶がある。
しかし全ての人がそんな事を学んだ訳でもないし、第一クラスの四十数人が全部てんでバラバラに動き回ったんでは先生もたまったもんじゃないから、そんなこと感じていても教えなかった先生も多かったと思う。
考えてみれば、しかしそんな影響か?私の色々な場面での決断は大勢とは異なる方向に向かうもので、この大勢に与しないという教えがその後の私の色々な場面での決断に影響をしていたと思う。

今日の写真は散歩途中に見つけた極めて小さな花。ヒノキの仲間のヒバの花だと思うが3mm程度の小さな花が鈴なりに咲いている。この花もそれなりに花粉を撒き散らすんだろうか?
2017/05/03
 
-1900- お化けタンポポ
娘の家の庭にはびこった雑草を抜いていて不思議なタンポポに気づいた。子供の頃からこの歳までタンポポは随分見ているが、こんな花を見た記憶はない。キノコのような形状だ。
Webで調べると帯化と言う突然変異らしい。花だけでなく実や茎などが分裂する際に分裂異常でくっついてしまうとか。気になって近くのタンポポを見るとここまで太いのはないが通常よりかなり太い花茎は結構ある。ここの土地がそうさせるのか?虫や細菌などの条件がそうさせるのか? 
2017/04/30
 
-1899- e日記ログ修正
一月ほど前から岡谷に来て、娘達の手伝い=実質慣れない家政夫?のようなことをしており、少しは暇な時間があるが命綱のパソコンはノートPCしか持ってきていない。元々プレゼンテーション用に持ち運びに便利で、性能はそこそこの機種をチョイスしたのであまりハードな処理は出来ない。せいぜい Webで e日記を記入したりメールしたり程度のことを暇つぶしにやっている。その中で気づいたのはこの e日記のログと古い記事(htmlとして出力したページ)の間に結構な齟齬があるということ。今まで htmlページさえ出力してしまえば ログは関係ないと放置してきたが、htmlページを若干編集しようかと考えたが、そのままだと従来のページの記事番号と齟齬が出てしまうことに気づいた。そこでhtmlページの記事番号とログの記事番号を対照しながら、欠番や記事のダブリなどをチェックしてログファイルの番号をつけ直そうとした。
しかし千件以上の記事があるので、数百件の番号を一つずつずらすにもかなりの工数が必要になる。どうしようかと思案したが結局一番手っ取り早いのは Excelを使う方法。
ログファイルは記事ごとに改行を区切りとして、その中は番号や画像ファイル名、表題、記事内容などが Tab文字で区切られている。そのログファイルをエイヤッと Excelに読み込ませると記事1件が1行に、記事中の各要素(番号~記事内容)が列に区分けされる。そこで記事番号の列の隣に新しい列を挿入しておいて1件ずつ番号をずらす範囲に連続数値をフィルハンドルを使って作成し、その範囲を修正する元の記事番号のセル範囲にコピペする。最後に挿入した列は削除。こうすることで数百件の記事番号の付け替えが10分足らずで終わった。
案ずるよりは産むが易し・・・・娘ではなく私の話。

今日の写真は座間にいるとなかなかお目にかかれないツクシ。こっちだと道路脇にいっぱい生えている。
2017/04/29
 
-1898- キバナノアマナ
ちょっと前の撮影になるが、出早神社の境内に咲いていた花。キバナノアマナというユリ科の花だと思う。
2017/04/28
 
-1897- 死を意識:締め
長々と書いてきた個人的な思い出話の締めとして。
それにしても、高校時代の最初の発症時に病名を特定されて早めに処置していれば電電公社の大学部は合格したかもしれないが、見方を変えると、もし最初の発症時に病名が特定されていたら間違いなく田舎の医者に執刀されただろうから十数箇所もの患部を持つ私の肺では手術結果がどうなったかも分からないから、ある意味病名を特定できなかった医者にも感謝しないといけない。
更に、電電公社を辞めなかったら、例え大学部を卒業しても通信研究所にいける可能性は限りなくゼロに近いから開発・設計という本当に希望した進路は進めなかっただろうし、このWebのあちこちに書き散らしたデジカメの立ち上げとかその他諸々の技術との出会いなど、こんなドラマチックなサラリーマン生活なんてあり得なかった。そういう意味では大学部受験の前に手術を受けて合格したり、合格後に手術を受けたりでもない身体検査での告知というタイミングは私の人生では絶妙だったとも言える。
本当に世の中何が幸運で何が不運につながるのか・・・・最後までわからない。・・・・いや、まだ分からない?!

今日の写真はキクザキイチゲ。この下のアズマイチゲの仲間らしいが色と葉っぱの先の裂け方が違うらしい。
2017/04/24
 

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(2017/2/16 22:26_)
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-1896- 死を意識:続きの2
他人にはどうでもいい話の続き。
電電公社内部の養成機関は不合格になったので、そのまま1年ほど夜間大学との二足のわらじ生活を続け、ある5月の金曜日の夕方 電電公社の先輩と神田の飲み屋でかなり飲んで(行きがかりは記憶していないが)夜遅くその先輩の小岩の実家に転がり込んだ。翌朝朝食をごちそうになって、バス停まで送ってもらいバスに乗って駅に出ようとしてバスの座席に腰掛けたら突然例の息苦しさに襲われた。
1年ほど前の病名宣告で、次に発症したら迷いなく手術することに決めていたので、そのまま苦しい肺をなだめつつ、とりあえず都立大学駅にあった下宿のような自宅に戻り、保険証を持ってから すぐそばの大学の学生課に行って事情を話して夏休みまでの講義の休講届けを出し、そのまま五反田にある逓信病院に向かった。
すでに午後になっており、土曜日でもあるし外来はすでに閉じていたが救急窓口に事情を話すとすぐに胸部外科で診察してくれるという。そこで医者に「自然気胸が発症したので息苦しい」と説明すると、無愛想な医者は「病名はこっちで決めるから」と言ってレントゲン撮影をされ、結局「左肺自然気胸」と診断されて、「この肺の容量でよく一人で歩けたな」と感心され、そのまま応急処置で肺に注射針のような空気抜きを刺して肺の外部に漏れ出た空気を抜いてくれた。針の先にはチューブが接続されそのチューブはベッドの下の液体の入った容器につながっているようで、空気が抜けるのが「ゴボゴボ」という音で分かったが、同時に呼吸が楽になっていくのでそれまでの医者の説明が身体で理解できた。
そのまま車付き寝台で胸部外科の病室に運ばれて入院し、翌週 曜日は忘れたが手術と決まった。当時 胸部外科は手術後の結核患者と同じ隔離病棟だったので、感染予防の説明などを受けて手術よりもソッチのほうを心配した。
翌週のはじめ、手術の事前検査ということで硬性鏡による肺表面の観察が行われた。胸の局部麻酔で肋骨の間にメスを入れ穴を開けてそこから硬性鏡(細い覗き眼鏡のようなもの)を胸郭まで突っ込んで肺の表面の薄い膜の部位を特定するらしいが、局部麻酔なので意識はあり、胸を強く抑えられてメスの入る瞬間を分からなくしたらしいが、やはり左胸と言う急所にメスが食い込んでいく感触は消えず何とも言えず気持ちの悪いもので「その先には心臓もあるんだし・・・」などと要らぬ杞憂をした。そして表面の膜の薄い部分を確認し始めた医師が、最初は「こことここ」などと言って多分カルテに部位を書き込んでいたと思うが、その内に無言になって硬い硬性鏡の先で肺をこねくり回し始めた(実際には鉗子も一緒に挿入されていたのかも知れないが)。終わって傷口を処置した後で受けた説明では、「普通多くても2~3箇所なんですが、あなたの場合十数カ所(数は正確には忘れた)あります。もしかすると肺の裏側などにもっと隠れているかもしれませんが、あとは手術時に肉眼で見ながら切除縫合します。かなり手術時間は長くなりそうです。」と驚くような宣告をされて楽天家の私も流石にちょっとショックを受けた。(しかし今になって思うと、そのことが却って研修医などの実験台にされず名医の執刀を受けられた理由だったような気もする)
で、手術の同意書や手術時の肉親の付き添いなどが必要なため、当時川崎に住んでいた兄に連絡し翌日来てもらうことにしたが、その時 故郷の両親には心配かけたくないので話さないでと頼んだ。兄は了解してくれたが、義姉は「お父さんお母さんに聞かれたら何て言ったらいいの?」とかなり戸惑ったらしい。自分では1ヶ月の入院が過ぎ退院するとすぐに大学は夏休みだし、勤めは手術後の病休を使えば1週間位は帰省できるので、回復した顔を見せて自分で説明したほうが余分な心配かけなくて済むし、何より東京を一人では歩けない田舎の年寄りが出てこられても兄夫婦には二重の負担をかけるのでそうするしか無いとの判断だった。
で、実際に退院して数日後帰省すると、両親は何事かと訝っていたらしい。それまで電電公社勤務だから局内からの電話は無料で、私にしては比較的マメに両親に電話していたのに、それをしなかったので義姉の心配は的中し入院中に両親が兄の家に電話した際「○○も電話がないけど変わりないか?」と聞いたので、つい義姉は言葉に詰まって苦し紛れに「それが・・・、 ○○さんが自分で話すって言ってましたから」と言ってしまったらしい。両親はそれを聞いて「電話で話せないことなんて、よほど悪いことでもしたんだろうか?」と逆にあらぬ心配をしたらしい。
で、事の次第を話すと「大変だっただろうけど、身体がよくなったなら良かった」と言ったものの、後日親戚から聞くと「頼りにされない親というのも寂しい」と話していたらしい。ちょっと悪いことをしたかな? とは思ったが、性格柄「もっと世の中悪いことだってあるんだから」と思い直した。
そんなこんなで、死を一瞬だけ意識した手術を経てとりあえず自然気胸の恐れはなくなり、考え方によれば「あとは拾い物の人生、思い切ってやりたいことをやってみよう。」と居直った結果、タダで入院や大手術を受けられたり普通の人ではまず頼めない高名な政治家が指名するような名医に執刀してもらったりと随分お世話になったけれど、大学卒業時に電電公社は辞めて高校時代からの夢だった純技術的な・設計のできる仕事に就こうと心が決まった。(それまでも他人から見れば十分居直ったような生き方だったかもしれないが) この時も両親は「絶対に潰れない電電公社を辞めるなんて」と思ったらしいが、自分の息子の性格も分かっていたのだろう、何も言われなかった。
とにかく、人間小さくても一旦「死」の可能性と向き合うと、ものの捉え方は変わって岐路の選択方法も違ってくるもんなんだろう。

今日の写真は1週間近く前の撮影になるが出早神社の境内に咲き始めていたアズマイチゲの花。
2017/04/23
 
-1895- 死を意識:続き
歳と共に薄れる記憶を留めるための私的な想い出の続き。内容は表題からどんどん遠ざかって他人にはどうでもいい話だとは思うが。
そもそも最初に自然気胸の記憶があるのは高校1年の頃だったと思う。私の家から学校までは 1kmほどの距離で、当時私の学校では殆どの男子学生がバンカラ気取りで高下駄を履いて通学していたと思う。まだ半袖の晩夏の頃だったと思うが学校からの帰り道、家まであと 100mくらいの路上で突然息が吸えなくなって、どうすることも出来ずにしゃがみこんだ。当時のその道路は傍らが竹藪もう一方は2mほどの高さの土手の上に畑が続き路傍に人家はなく人や車などの通行もあまりない通りで、自分の体に何が起きたのかもわからず、暫くしゃがみこんだまま誰にも助けを呼べなかった。おそらく数分間はそのままで、その後仕方ないので様子を見ながらソロソロと本当に這うようにして家に帰り着いた。多分母は農作業でかなり離れた畑に行っていたようで、家には誰もおらずそのまま居間に寝転んでしまった。1時間以上経った頃、母が帰ってきたがその頃には息苦しさはかなり軽減してきて、息はかなり吸えるようになっていた。夕方だったので翌日病院に行くことにして、その日はそのまま普通の生活をして寝てしまった。
翌日、学校を遅刻して(総合病院が学校の直ぐ側だった)病院で受診したが、レントゲン検査でもはっきりとした原因は分からず、「気管支炎かも」と言われた。時間とともに息苦しさは軽減していくので、縮まった肺が再びもとの大きさに戻ったのかもしれない。
その後、同じような突然の息苦しさは3回位起きたと記憶しているが、暫くじっとしていれば軽減することが経験的にわかったので、対症療法でしのいで病院に行くこともなかった。高校を卒業して東京の電電公社に就職して、翌年夜間の大学にも通い始めた頃 将来の進路を考えて電電公社の「大学部」という内部養成機関に進むことを考えて受験をした。多分全国から数十人の合格者の狭き門だったと思うが、筆記試験は無事合格して身体検査が行われたが、その後内部の医務室に呼び出しを受けて「レントゲン検査の結果では気胸の痕跡があるが息苦しくはないか?」と聞かれた。上記のように息苦しい記憶はあったので、「何回かは息苦しくなった記憶があるしレントゲンも撮ったがそんな病気とは言われなかった。現在は全く息苦しさは感じない。」と答えたが、「どんなヤブだってレントゲンで発症している気胸を見逃すはずはない。」と言われて、結局合格基準の身体健全の条件を満たさないということで結果は不合格となってしまった。
当時の電電公社の大学部とは全寮制で、給与をもらいつつ終日大学並みの教育が受けられ、卒業時点では都道府県単位の勤務地が選択でき将来は各地方本部の幹部候補としての道が開かれるいわば準キャリアー的なコースだった。しかし大学部には技術コースと事務コース(名前は正確に記憶していないが)とに分かれていたものの、それ以前からすでに技術屋として生きることは私の中では既定路線で、大学部でどんな技術教育が受けられその先どんな仕事の可能性が拓けるのかは未知数で、合格したらとりあえず通っていた夜間大学は休学し、大学部に行って卒業時点で東京に残留し夜間大学に復学するか地方に移るのかを決めればいいと軽く考えていた。
・・・・・この先 更に想い出が遡るので、続きはまた。

今日の写真は先日散歩に出かけた出早神社で撮影したもの。ネームカードには「アブラチャン」とあったが、ちょうどその木に花が咲き始めその花にハエが蜜を吸いに?舐めに?来ていた。
2017/04/21
 
-1894- 死を意識!?
一見深刻な表題になってしまったが、単なる想い出話。
風呂から上がったらついていたTVに坂本龍一が登場して、死を意識した時「満月をあと何回見られるか?」と思った、と言うような話をしていた。見たのはそこだけで前後は不明なので <それまでしばらくは死ぬことなんて無いだろうと漠然と思っていたのにガンになってあと何年生きられるかと意識した途端、人生の捉え方が死を起点にした逆算方式になった>というようなことだろうと勝手に解釈した。
そこで思い出したんだが、私も一瞬だけ死を意識したことがあったなぁと。22歳の時だったと思うが、自然気胸を患って開胸手術をした。その時、手術台の上に寝かされて上を見ると巨大な無影照明ライトが目に入った。すぐに全身麻酔用の笑気ガスのマスクを近づけられて意識は無くなったが、その僅か数秒の間「もしかしたらこのまま意識が戻ることはないかもしれない。これがこの世の見納めになるのかも」と思った。後から聞くと手術室に入る前に鎮静剤の注射を打たれたが、この光景を見て荒らび出す患者がいるための鎮静剤だとか。やはりあのシーンで死を意識するのは私だけではないということらしい。
自然気胸とは肺の表面膜に生まれつき薄いところがあって、そこが何故か突然破れ呼気が肺の外側(胸郭)に漏れ出してしまい、肺の実質体積が減ってしまうので息が吸えなくて呼吸が苦しくなり、登山中や海での水泳中など最悪の状況で発症すると死ぬこともあると言われている病気だった。しかもその時、私の左肺は自然気胸では通常一つか2つという肺の表面膜の薄い部分が十数個あると診断され、それを全て切除縫合して除去するため手術は数時間に及び、その分全身麻酔の時間も長かったらしい。後から聞いた話だが、その時の執刀医は東洋でもトップクラスの胸部外科医だったそうで、その先生でも数時間飲まず食わずで手術したんだから、通常の外科医だったら全箇所の縫合は出来なかっただろうと教えられた。しかもその間輸血なしでの施術は驚異的だったとか。当時電電公社勤めで逓信病院で全て無料で済んだんだから感謝しても感謝しきれない。
そんな長時間麻酔が切れて意識が回復したのは夜になってからだったらしいが、その時もまだ意識朦朧としつつ反応していたらしく自分では記憶がない。記憶があるのは24時間以上経った翌朝、派遣介護のおばさんに声をかけられた時だった。しかし「あぁ、死ななかったんだ」と思ったのは更にそれから何回かウトウト状態を経た後で、意識が戻った当初はとにかく全身麻酔と大量出血の気だるさが酷かったことしか記憶にない。
じゃぁ私があの時以来、人生観・価値観が変わったかといえば・・・・たしかに変わった部分もあるが、それは長~い話になるのでまた。

岡谷の平福寺という古刹にある枝垂れ桜が満開になったという新聞記事があったので、散歩がてら出かけて撮影してきた。
2017/04/19
 
-1893- カタクリ
娘の家から歩ける範囲に出早神社と言う神社があるが、そこの境内にカタクリの群生地があるということを思い出して散歩がてら足を伸ばしてみた。
折しも境内にテントが張られ、「カタクリ祭り」なる催しの最中で、お茶を振る舞っていた。聞けば前日辺りからカタクリが開花したとのこと。まだ花の数は少ないが、あちこちに一輪二輪開いていた。
その他、アズマイチゲやキクザキイチゲ、キバナノアマナなど普段目にすることがない野草が花開いていた。
2017/04/17
 
-1892- 北朝鮮危機:その3
"相変わらず北朝鮮情勢についての(誰からも注目されない)岡目八目の独り言。
まずオープンセレモニーの行われた黎明通りの70階建て高層マンションが金正恩の指示で徹夜の突貫工事の末わずか1年足らずで完成したという情報。メディアの分析では経済制裁下でも経済発展は独自に問題なく進んでいるというアピールだとか。しかし朝鮮半島は地震がないとされており建物の構造は鉄筋なのか鉄骨なのかすら分からないが、いずれにしろ先進国の常識で考えるなら明らかに「手抜き」突貫工事を伺わせるだけでそんな事では技術の高度さをアッピールは出来ないと言う事も理解出来ていないのだろうか。このニュースで昔私自身が目にした韓国の工事現場の光景が再び蘇った。
今日新たに伝えられた米国側情報として、アフガニスタンのIS掃討戦で核兵器を除く通常兵器中最強の大規模爆風爆弾「GBU43B」を初めて実戦で使用したと発表したらしい。この爆弾は主に地下施設を破壊するのが目的とされるから、多分地下壕に逃げても無駄だと言う米国の金正恩に対するメッセージだろう。

今日の写真はこの辺りでも盛んに目にするようになったレンギョウの花。"
2017/04/14
 


-1891- 北朝鮮危機:続き
昨日に続いて、北朝鮮の話。
今日、故・金日成主席の105周年の生誕記念式典の取材に招待されていた海外の報道陣が突如招集されて金正恩氏の生映像を撮影させられたという。主席に対する斬首作戦が囁やかれるさなかだったが、そうした脅しに対して余裕を見せつける目的だったのか? 記者たちは目的も知らされずスマホもホテルで没収されてバスで移動させられた先での出来事で、高級マンション建設計画の「黎明通り」のオープニング・セレモニーという事は到着後知らされたようで、余裕は見せかけでおそらくは GPS機能などによる詳細な場所のリアルタイムでの特定を避ける目的もあったのだろう。
まぁ今回の取材が終わるまでは多くの国のメディアのスタッフを実質的な人質に取っているわけで、金正男殺害でマレーシア外交官などを足止めして人質化して裏取引したような国だから、例えその間に新しい核実験などを実施したとしても米国の攻撃があれば他国の非難が米国に向けられるから容易には手出しできないだろうとしたたかに計算しているに違いない。
実に狡猾な計算づくのシナリオが描かれている。

今日の写真は娘の家の近所の家の庭に咲いていたタンポポとカタクリ?だろうか。
2017/04/13
 
-1890- 北朝鮮危機
"再び北朝鮮情勢が緊迫してきた。
暴れん坊のトランプがきかん坊の金正恩と対峙しているのでいつ不測の事態が起きるのか全く予想がつかない。韓国の巷では4月27日説がまことしやかにささやかれているらしいが、単なる噂にとどまらず米国によるオサマ・ビン・ラディン殺害計画と同様の海軍特殊急襲部隊による斬首作戦なる謀略計画立案がいよいよ本格化したとのネットニュースや、日本政府による韓国への渡航注意等もあって今まで以上に緊迫感が伝わってくる。直近のトランプVs習近平主席会談の成果詳細もあまり報じられない事も却って中国の黙認などの裏取引という薄気味悪さを醸し出している。中国にすれば国内対応にかまけている間に若輩の同胞と侮っていた一寸足らずの虫が思わぬ方向に向かってしまって、いつの間にか獅子身中の虫と化した。そんな厄介な患部を取り除くのに、自らの血を流さないで済むならと裏取引に応じた可能性は否定できない。
一方、北朝鮮では正恩の叔父の張成沢氏を粛清した朝鮮版KGB長官とも言うべき 金元弘(キム・ウォンホン)国家安全保衛相が今年になって電撃解任されたとも伝えられ国内の混乱ぶりを伺わせている。たとえ米国が手出ししなくとも、寝首をかかれると疑心暗鬼になった正恩氏が精神不安定で核のボタンに手をかける可能性だってゼロとは言えない。
などなど正しくここで私も書いた国家総自爆テロと言う最悪の事態が俄に真実味を帯びてきた。
北朝鮮の現体制が継続してますます核の威力が増えるのも困るが、核による周辺国道連れ自爆はもっと困る、と言う何ともやるせないジレンマだ。

今日の写真は早くも泳ぎ始めた鯉のぼり。旧家なのか随分立派な鯉のぼりだった。"
2017/04/12
 
-1889- 下水パイプのつまり
= 今日は画像なし m(_ _)m =
娘の家で朝、歯を磨いていると洗面所の排水の勢いが悪い。ゴミ取り網が詰まったかと思って掃除をしたが流れは改善しない。どうやら臭気止めのU字管の辺りに汚れが溜まってしまったらしい。使い古しの歯ブラシで届く範囲をこすったが逆効果。どうやらかろうじて通じていた水路が流れた汚れでほとんど完全に詰まってしまったようだ。パイプ入り口に溜まった水は1~2分しないとなくならない。
仕方ないので買い置きしてあったタブレット状のパイプ洗浄剤を2個投入して水を少し流し、しばらくして大量に水を流すも改善の兆候なし。最近の洗面台のパイプの入口付近は直線状ではなく複雑な形状をしているので塊の洗浄剤はU字管部分まで到達せずに途中でひかかってしまい、徐々に溶けているのではと想像。液体状の洗浄剤なら複雑な流路でもU字管部分まで到達するだろうから買ってこようかとも考えたが、しばらく考えてアイデアが浮かんだ。
台所を探してペットボトルのなるべく柔らかめの容器を見つけ、それに水を満たしてから流れの悪い洗面台流しにも水を張っておいて急いで排水口に逆さに突っ込んでペットボトルの水が排水口に流れるように思い切り握りつぶした。要は高圧洗浄の簡易処置。汚れ程度の軽い詰まりならこれでも何とかなるだろうと踏んだ。(空気圧でもいいかとも思ったが、水のほうが圧縮されづらいから握った圧は逃げないだろうし高さ分の水圧がプラスされるかも?という気持ち程度の問題)
結果は大正解。ゴボゴボという気持ち良い音と共に水が勢い良く吸い込まれて詰まりは一発解消。
理系お父さんの久しぶりの面目躍如。ほんの一瞬だけだが、家族の私を見る目が変わったような?(それも気のせいかも)
2017/04/11
-1888- スマホ移行完了
先日家人のガラケーをやっと格安スマホに変えた。理由は主に娘達との電話代を安くするため。それまではキャリアーも違っているし、家人のガラケーから娘への電話は1分20円のガラパゴス値段。一旦家人が電話すると話し放題の娘がかけ直して来ていた。
いろいろ渋っていた家人を電話代の差額で説得し何とかOKが出た。早速近くの家電店でMNPで格安SIMに乗り換え。
しかし初期設定を色々やって アドレス帳の移行をしようとしたら問題が。ガラケーのアドレス帳をガラケーのSDカードにエクスポートして、その SDカードをスマホに挿入し *.vcfファイルをインポートした。しかし2バイト文字は文字化け。 どうやらガラケーは Shift-JIS、スマホは UTF-8という漢字コードの違いらしい。漢字コード変換を PCでやろうとしたが出先なので マイクロSDカードの変換アダプタがない。スマホからメール添付して PCに送ってから S-JIS > UTF-8変換して、返信して再度読み込み。 しかし今度はエラーで読み込めず。ウ~ン と唸ってしまったが、ものは試しで UTF-8Nに再変換してトライ。何とか無事読み込めた。使用したテキストエディタが TeraPadだったので、 UTF-8では過去の遺物とも言うべき BOMと言う先頭3バイトの文字コード識別マークが付加されてしまい、それが逆にスマホのファイル認識の邪魔をしてしまったようだ。
テキストエディタによっては、UTF-8という文字コード選択とBOMの有無を別々に指定する場合もあるようで、もし同じようにトラブルになっている人はその辺りを確認する必要がある。

今日の写真は(多分)アレチノギク。娘の家の庭に早々と雑草が生え始めた。
2017/04/09
 
-1887- スマホ移行
家人のガラケーをやっと格安スマホに変えた。理由は主に娘達との電話代を安くするため。
で、初期設定を色々やって アドレス帳の移行をしようとしたら問題が。ガラケーのアドレス帳をSDカードにエクスポートして、その SDカードをスマホに挿入し *.vcfファイルをスマホでインポートした。しかし2バイト文字は文字化け。 どうやらガラケーは Shift-JIS、スマホは UTF-8という漢字コードの違いらしい。漢字コード変換を PCでやろうとしたが出先なので マイクロSDカードの変換アダプタがない。メール添付して PCメールに送ってから S-JIS > UTF-8変換して、返信して再度読み込み。 しかし今度はエラーで読み込めず。ウ~ン と唸ってしまったが、ものは試しで UTF-8Nに再変換してトライ。何とか無事読み込めた。

今日の写真は(多分)アレチノギク。娘の家の庭に早々と雑草が生え始めた。
2017/04/09
 

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-1886- シバサクラ
散歩中に垣根の下に白い花が顔を覗かせていた。芝桜だろうか?
2017/04/07
 
-1885- アノことさえ
この下に書いた脇腹負傷をしてから、冷静になってつくづく考えた。
今回のような怪我の時を始め、人生には後になってから「アノことさえなければ」と忸怩たる思いに苛まれることがある。つい2年ほど前にもジョギング中に暗がりで小石に乗り上げて転びそうになり足の小指の骨を骨折したが「あの時、ちょっと気をつけていればこんな痛い思いはしないで済んだのに。せめてもう十センチ横を走ってさえいれば」等と思った。しかし怪我はある時間経てば治るのでいずれ忘れることができるが、小人としてはニュースなどを見ていて「おそらくあの人はあんなことをしてしまって一生かけてもくやみ続けるだろうな」と思うようなこともある。でもその実当の本人はそんなことは<屁の河童>で反省などせずに「絶対に自分は正しい、いや何時かは正しいことを証明してみせる」などとリベンジを誓っているのかも知れない。そうでなくては良くも悪くも行いがニュースになったり、歴史に残ったりするような重要人物にはなれないんだろう。宗教裁判で「それでも地球は回っている」と述べたガリレオのように・・・・と、変な方向に思考が逸れた。これも小人の軽薄浅慮。

今日の写真は出先で見つけた鉢植えのエバーフレッシュという木に咲いていた花。ねむの木などの仲間らしい。
2017/04/06
 
-1884- 暫くぶりに
更新する。神奈川と岡谷を行き来している中で色々あって書き込みから遠のいてしまった。
その1・肋骨負傷 ちょっとした気の緩みで(飲んで帰り道)脇腹を道路わきの鉄杭にぶつけた。「痛い」と思ったものの、それほどではなくそのまま家に帰って風呂にも入って寝たが、翌日以降痛みがだんだん増してきた。翌日はどうしても岡谷に来る予定があり日曜日で医者も休みだからそのままあずさで岡谷に来て、翌月曜日医者に行ったところ肋骨負傷。痛み止め薬をもらって帰ってきた。
その2・車損傷 痛い脇腹でスーパーに買い物に行き、車を止めて買い物をして出てきたら知らない女性が待っていた。「すみません、車をぶつけてしまいました」と事故?自己?申告。左の鼻先が結構凹んでいた。しかし、まぁ黙って逃げられたらほぼ見つけられないところだから、正直に申告していただいたので紳士の対応で保険の申告のため事故証明を取りに警察へ。そしてその足で近くの自動車工場に車を持ち込み修理依頼。
その他 諸々。

今日の写真は、そんなこんなで写真を撮る時間もないので先日出早公園で撮影したもの。自生しているカタクリを期待していったがまだ早かったようで、花はオオイヌノフグリが小さな花をつけているだけだった。
2017/04/05
 
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